日本総菩提所と称される高野山の南、有田川最上流部の山中にあり、『紀伊続風土記』は「四顧高峰峻嶺雲日を障ふる勢あり」と記す。現在は面積四八.二四平方キロの村であるが、かつてこのあたり一帯を花園とよび、高野山の諸堂社への供花(樒など)を出す地として、また高野山の荘園として、歴史を刻んできた。
花園の地名は全国各地にみられるが、当花園は寛弘元年(一〇〇四)九月二五日の太政官符案(前田家本「高野寺縁起」所収)にみえるのが早い。京都市右京区の花園が仁和寺の供花採取の地であったといわれるように、大寺・霊場への供花採取地に付けられた地名との説があるが、当花園も例外ではなかった。
花園村の北寺にある高野山真言宗徳竜寺は、第二次世界大戦前まで
花園庄は、先の寛弘元年より溯ること数十年、高野山金剛峯寺座主済高の仕丁久曽丸なる者によって開発され、その後高野山第一代執行峰宿、二代仲応と伝領されたという(『高野春秋』)。この領有について一一世紀初頭、高野山は中納言平惟仲と、また一三世紀以降は吉野金峯山と断続的に争っているが、総じて高野山領として存続した。
花園庄は、一三世紀以降は有田川沿いの現在の花園村
花園庄の荘民の夫役の一つに「桧物等細々雑季役」があり(正平七年六月日「花園上庄掃除人夫役免除状」中南区有文書)、山間の荘園としての特色がみられる。その他にも多くの夫役があったようで、天授元年(一三七五)頃の花園庄百姓訴状案(同文書)が残り、負担の軽減を訴えている。文安四年(一四四七)、高野山大湯屋の釜が鋳られたが、同年八月二一日付の目録(『又続宝簡集』)によると、大釜鋳造用の鍛冶炭一六〇荷を、他の高野山領の地域とともに負担している。
花園庄が仕丁久曽丸の開発になるという伝承は、この地が高野山の供花採取の地であったことから生れたものではなかろうか。
花園村
遍照寺では六一年目ごとの閏一〇月に、法華経の説く女人成仏を劇的に演じる仏の舞が行われる。高野山参詣者の勧進のために始められたという。また花園には紀州南部からの高野山参詣道が集まり、ここからは高野町湯川を通って高野山大門へ、また同町相ノ浦を通って高野山小田原谷に出る参詣道があった。
花園のほぼ中央にあたる新子の観音堂には、天平の写経を含む大般若経六〇〇巻が蔵されていた。花園村大般若経として知られるが、その奥書などから河内国のある寺に住んだ万福法師が発願、架橋と写経の功徳を目的として始めたもので、花影禅師が完成、平安・鎌倉・室町時代に補写され、和泉国の大福寺などを経て、当地に納まった。天文五年(一五三六)以降のことという。花園への伝来の詳細は不明だが、観音堂の庭に、この大般若経をもたらした僧の墓と称する五輪塔があった。当地が夏衆など無名の聖のいた地であってみれば、その伝来の詳細が不明なのも彼等の手になったからとも考えられる。
昭和二八年七月一八日、記録的な豪雨に襲われ、この大般若経をはじめ、高野山との関わりの中で育まれた文化を伝える堂や文書など多くを流失、人口の流出もうながした。花園の地は変わりつつある。
(M・K)
初出:『月刊百科』1983年6月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである