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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第101回 竜王山
【りゅうおうさん】
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北摂の隠れた霊峰
大阪府茨木市
2014年03月28日

大阪府北部、京都府境に東西に連なる標高五〇〇‐六〇〇メートル前後の山嶺を北摂山地という。山中には明治の森箕面みのお国定公園(箕面市)、竜仙りゅうせん峡(茨木市)、摂津峡(高槻市)など大阪府下有数の景勝地がある。変化に富んだ山々は古くから山岳修行の行場となり、「ひじり住所じゅうしょ」(『梁塵秘抄』)と歌われた箕面寺・勝尾かつお寺(箕面市)をはじめ、山林修行の道場として発展した寺院が多く、北摂修験とも言うべき宗教的世界を形成していた。

竜王山は北摂山地のほぼ中央にあり、標高五一〇メートル、一に忍頂寺にんちょうじ山ともいう。東麓を安威あい川が流れ、西麓の谷を丹波亀山かめやま(京都府亀岡市)に至る亀山街道が通る。北麓・南麓も開析谷が発達するため周囲の山から独立し、ほぼ円錐形の美しい山容を呈する。

山頂から西へやや下った所に湧水を湛えた池があり、池中に山名の由縁となった八大竜王を祀る小祠がある。竜王社は安永三年(一七七四)西隣に創建された融通念仏宗宝池ほうち寺が管理するが、同寺創建以前は西南麓の忍頂寺の管理下にあったという。これを裏付けるように忍頂寺には『秘鈔』という請雨しょうう法(請雨経法)の書が残る。請雨は竜王社の池畔で行われ、近年まで山麓の村々では竜王社で雨を乞い、神火を受けて帰ると降雨があると信じられた。

竜王山で請雨法を修していた忍頂寺は、かつて二三の寺坊を有する大寺院であったと伝える。現在では一支院の高野山真言宗寿命じゅみょう院が法灯を守るのみで、寺歴を語る史料も寺には殆ど残らない。

『三代実録』貞観二年(八六〇)九月二〇日条によると、伝灯満位三澄さんちょうは国家鎮護を祈念して「神岑山寺」を建立、春は最勝王経、秋は法華経の講説を行ったが、この寺を清和天皇勅願の真言寺院とし、改めて忍頂寺の名を賜わるよう奏請して、許されたという。

忍頂寺の初見であり、北摂山地の寺院を記した最も古い記録である。寺には加挙かこ(一定量以上の出挙を行うこと)本稲六〇〇束があてられ(保安元年の摂津国正税帳案)、創建後まもなく国家の援助があったものとみられるが、鎌倉時代には京都仁和寺の末寺となっている。「神岑山寺」の読みは不明だが、忍頂寺の山号「賀峰山かぶさん」は一つの読み方といえよう。

ところで、忍頂寺の東南約三キロ、茨木市大門寺だいもんじの安威川右岸に真言宗御室おむろ派大門寺がある。古く観音大門寺といい、平安後期と鎌倉中期に同寺で寺僧・俗人も含めて書写された一切経の一部が散在して残る。この寺も神峯山かぶさんと号し、弥勒寺(のちの勝尾寺)本願開成かいじょう皇子の開創と伝える。

そして忍頂寺から安威川・あくた川を越えた東方約五キロの山中、高槻たかつきはらに天台宗根本こんぽん神峰山かぶさん寺がある。同寺では寺の北方、京都府界にあるポンポン山(山号の根本山と関係があろう)にわたる寺の奥山が神峰山であるという。寺は役行者えんのぎょうじゃ開基、開成皇子再興と伝え、平安後期の阿弥陀如来像・聖観音像(重要文化財)を蔵する。つまり北摂山地東半部には「カブ」山に関わる三古刹が点在するわけである。

拾芥抄しゅうがいしょう』には畿内近国の高山・霊山として七高山を載せ、その一つに摂州神峰山をあげる。七高山の殆どは、役行者開創伝説をもつ修験の山であるため、一般に神峰山は高槻市神峰山寺のことと考えられている。しかし『延喜天暦御記抄』(柳原家記録)が、神岑山忍頂寺を七高山の四番目としているのも注目すべきであろう。

推測にすぎないが、七高山の神峰山の中心は、当初竜王山だったとは考えられないだろうか。神峰山の名称の原拠が「神岑山」であったことはほぼ間違いないと思われるし、古く「神岑山」といわれた山は神岑山寺(忍頂寺)のある竜王山にほかならない。竜王山はかみみねとよばれるに相応しく厳峻な姿をした秀峰である。俗世を離れた求道者たちが浄土の山と憧れ、付近に行場が確立されるなかで、寺観の整っていた忍頂寺が次第に修行者たちの住所となっていったことは想像に難くない。そして神峰山は、竜王山を中心として形成された、北摂山地の修験の霊場の総称となったのではあるまいか。

北摂山地の寺院の多くが山岳修験者開基伝説をもつのに対し、『三代実録』が記すように忍頂寺は成立事情を異にする。しかし『拾遺往生伝』によると、忍頂寺の僧源因は極楽往生を願ってひたすら念仏を修し、夢告の通り火中の僧坊で念仏を唱えつつ往生したという。

このような伝承は、平安時代、忍頂寺に念仏により往生を願う、浄土信仰の影響を強く受けた僧たちがいたことを示すものであろうし、この話は民間布教の材料でもあったろう。当時忍頂寺を支えていたのは、こうした念仏聖たちの布教・勧進活動であったと推察される。南北朝―室町期に忍頂寺は何度か軍陣となっており、その背景として付近の聖集団の存在は大きかったと思われる。

中世の戦乱や近隣からの出火により、忍頂寺は漸次衰微し、かつての勅願寺の面影は全く失われた。そして「山路最も嶮し。梯を踏んで攀躋はんせいす」(『摂津名所図会』)といわれた竜王山も、東海自然歩道・茨木自然歩道が山頂に通じて手ごろなハイキング地となっている。山頂からは眼下に大阪平野が広がり、遠くには代表的な修験の霊峰金剛こんごう生駒いこまの嶺々も望める。

(K・H)

初出:『月刊百科』1985年1月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである