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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第53回 潮来
【いたこ】
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水郷の町
茨城県行方郡潮来町
2011年06月10日

茨城県の南東部にある霞ヶ浦(西浦)は琵琶湖に次ぐ日本第二の湖である。利根川水系の堆積作用による閉塞や干拓などで狭められたが、かつてははるかに広大で、古代には千葉県の印旛沼や手賀沼までつながる巨大な入海であった。古代には湖全体の呼称はなく、『常陸国風土記』によれば信太しだ流海、榎浦流海、高浜の海などと地域によって呼ばれ、霞ヶ浦の名称が定まったのはようやく江戸時代初期のことである。

霞ヶ浦の流水は常陸利根川・外浪逆そとなさか浦をへて利根川本流に合するが、その途中に水郷の町として知られる行方なめがた郡潮来町がある。潮来は古くは板来・板久などと記され、常陸国府(現石岡市)と鹿島神宮を結ぶ往還の要所であった。『常陸国風土記』によれば海浜に臨んで駅家が置かれ、その海に「塩を焼く藻・海松・白貝・辛螺・蛤、多に生へり」とあるように、海中の洲には、春に鹿島・行方両郡の男女が多数集まって貝を拾ったという。また同書は板来の地名の由来を建借間命たけかしまのみことの東征にあたり、国栖くずの首領夜尺斯やさかし夜筑斯やつくしの二人が頑強に抵抗したので「建借間命、騎士をして堡を閉ぢしめ、後より襲ひ撃ちて、尽に種属を囚へ、一時に焚き滅しき。此の時、痛く殺すと言ひし所は、今、伊多久の郷と謂ひ」と記す。

「常陸国なる内の海」(神皇正統記)と呼ばれた霞ヶ浦の周辺には漁猟や塩焼に携わりながら舟運の担い手ともなった海民が、津と呼ばれた小集落を根拠に古くから活発に活動していた。これらの海民は平安時代末期の応保年間(一一六一‐六三)までに「海夫」と呼ばれるようになり、香取神宮に供祭料を貢献し、漁猟・交通上の特権を与えられていた(「大禰宜長房申状写」香取文書)。応安七年(一三七四)と思われる海夫注文(香取文書)によれば潮来町周辺の津は島崎・板久・信方(延方)などである。

慶長七年(一六〇二)に佐竹氏の秋田移封にともない板来は水戸藩領となり、元禄一一年(一六九八)藩主徳川光圀の命で潮来村と改称される(水戸紀年)。江戸時代にも引き続き交通の要衝であったが、とくに東北諸藩の江戸への物資輸送の中継地として繁栄し、仙台・津軽両藩などの蔵屋敷も設けられていた。東北諸藩の荷物は那珂湊から涸沼ひぬま川に入り、海老沢河岸(現東茨城郡茨城町)から下吉影しもよしかげ河岸(現同郡小川町)まで陸送、ともえ川を下って、北浦・浪逆浦・北利根川を通って利根川本流へ出、北上して下総関宿せきやど(現千葉県東葛飾郡)から江戸川に入る船が多かった。潮来村と称していたが、実際は在郷町で一‐八丁目に区分され、町並はまえ川の北岸沿いに発達した。各丁に年寄が置かれ、庄屋は年寄の中から選ばれた。明和四年(一七六七)の家数は七三〇、人数は二六〇八人であった(須田家文書)。水戸藩は天和二年(一六八二)に遊郭の設立を認可し、関戸家文書によれば正徳五年(一七一五)には遊女屋九軒、遊女九五人を数え、年間の遊客二万四二〇〇人、遊興金は一万六九四〇両に及んだという。しかし享保期(一七一六‐三六)頃から前川が埋まり、また利根川の銚子河口から江戸入りする船が増加したことにより、しだいにさびれていく。

前川と常陸利根川の間には常陸利根川の土砂が浪逆浦に堆積して形成された洲がある。近世初期に開発されて新田村が成立し、「二重谷旧記書上」(須田家文書)によると、はじめは下総国新島しんしま(現千葉県佐原市)領域に属していたが、正保元年(一六四四)に板久村の農民が幕府に開拓を願い出て、翌二年に許可され、同年以降海運上として永銭五〇〇文を納入したという。延宝二年(一六七四)には田地一一町七畝、年貢米一一石となり、元禄四年の検地では二二町四反余に増大。同一五年の常陸国絵図改正により常陸国に編入されたが、年貢諸米は従来通り幕府へ納入した。この頃二重谷にじゅうや村と名づけられたという。しかし開拓地へ家屋を建てることは許されず、すべて潮来村からの出作地とされた。元禄郷帳では無高とあるが、延享元年(一七四四)の検地で反別六二町八反余、村高四九二石余となり(二重谷旧記書上)、天保郷帳では五四二石余に増加する。

宝暦二年(一七五二)に二重谷村掟(関戸家文書)が定められ、村の自治運営がなされた。村掟は安永四年(一七七五)などに改正され、明治一〇年に二重谷村条例、同二二年に二重谷村規約と改称されたが、掟の基本は次のように要約される。(1)村は全村民の開発で、全村民が平等に権利・義務を有する。(2)耕地はすべて村の所有とし、個人の家屋構築は禁止する。(3)耕地の良悪による不公平をなくすため、三年ごとに土地の割替えをする。(4)村に関することは、潮来村八人頭の合議により決定する。その後、田取人(耕作者)の増大で規約による自治運営は困難となり、明治三四年に分割規定を定めて、田取人九二四人の個人所有地に分割された。

 

(T・F)


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初出:『月刊百科』1983年2月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである