本州日本海側のほぼ中央に位置する敦賀は天然の良港で、背後は琵琶湖水運を通して京畿に連絡し、古くから交通上の要衝であった。
古く角鹿と記され、「つぬが」または「つのが」と訓まれた。『古事記』仲哀天皇の段は次のような地名説話を載せる。角鹿の仮宮で、仲哀天皇の太子(応神天皇)の夢にこの地の
また別に『日本書紀』垂仁天皇二年条の注によれば、崇神天皇の世に
敦賀津はこの都怒我阿羅斯等の来着の話からも、古くより対外的な門戸であったことが推測される。六世紀後半から七世紀前半にかけて高句麗使が渡来し、神亀四年(七二七)から渤海使が越の国を表玄関として入貢しているが、敦賀には松原客館が設けられて、渤海の客人を迎えた。渤海使は三五回の来日のうち北陸へは一六回至り、高級毛皮や人参・蜜などを将来した。客館は平安時代には気比神宮司の管理下にあった。長徳元年(九九五)には宋商朱仁聡一行が若狭から敦賀に至り、僧源信が京から下って彼に会っているが、敦賀の情報は都へいち早くもたらされたのであろう。
『日本霊異記』中巻に載る「閻羅王の使の鬼、召さるる人の賂を得て免す縁」には、聖武天皇のとき奈良の人楢磐嶋が、大安寺の銭三〇貫を借りて「
平安遷都後も北の玄関口としてますます発展、北国諸国の官物はここに集中して陸路で近江国塩津(現滋賀県伊香郡西浅井町)へ運ばれ、湖上を大津へと輸送された。敦賀津通過の物資には通行税(升米)が課せられた。乾元二年(一三〇三)には気比升米の名目で気比神宮の所得としている。またこの頃後宇多上皇は升米五ヵ年分を奈良西大寺四天王院・京都伏見醍醐寺・京都祇園社三方修造料に寄せるなど、寺社の修造の資にもあてられた。
宝町時代、敦賀津には水運の機関として「舟座」があり、川舟・河野屋の二座に分れ、朝倉氏の保護を受ける反面、公事銭を上納した。川舟座は若狭・丹後および越前の浦々、また近江に出て塩・
文亀年間(一五〇一‐〇四)朝倉景冬・貞景・教景は川舟座保護策をとり、他国の商人に自国の舟座が支配されることを防いで、領国経済の維持・確立を図っている。
戦国時代から江戸時代初期にかけて産業・経済が発達し、市場も全国的規模に発展した。この時期日本海海運では、敦賀湊が同じく現福井県の小浜湊とともに北陸・北国と京都を結ぶ重要な役割を占めた。道川三郎左衛門・高嶋屋伝右衛門などは、この海運における主導的地位にあった豪商である。しかし寛永年代(一六二四‐四四)以降、これら豪商の海運活動は衰え、やがて新興の廻船業者が台頭するとともに問屋が多く成立した。
中世以降、敦賀津を中心に敦賀津内町が形成される。元和の一国一城令で敦賀城が破却されてからは、従来の気比神宮の門前町的性格、金ヶ崎城や敦賀城の城下町的性格は消えて湊町一色の町柄となり、敦賀町の最盛期と思われる寛文年間(一六六一‐七三)には町数四一、家数二千九〇三、人口一万五千一〇一を数えた。西鶴の『日本永代蔵』からも、その繁栄の様子をうかがうことができる。
越前の国敦賀の港は、毎日の入船判金一枚ならしの上米ありと云へり、淀の川舟の運上にかはらず、万事の問丸繁昌の所なり、殊更秋は立つづく市の借屋目前の京の町、男まじりの女尋常に其形気北国の都ぞかし、旅芝居も爰を心かけ、巾着切も集まれば、今時の人かしこく、印籠ははじめからさげず、(下略)
しかし瀬戸内海を通って大坂へ直行する西廻航路が定着すると、敦賀は次第に沈滞に向って行った。
(K・T)
初出:『月刊百科』1981 年11 月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである