山梨県の西部、甲府盆地の西縁をさえぎるようにそびえる鳳凰山は南アルプス(赤石山脈)を構成する山塊の一つで、どっしりとした山容は独立峰に近い様相を呈している。山頂部は北西―南東方向に連なる地蔵ヶ岳(二七六四メートル)・観音ヶ岳(二八四〇・九メートル)・薬師ヶ岳(二七八〇メートル)の三峰に分かれていて、現在では鳳凰三山という呼称が広く用いられている。山体は黒雲母花崗岩からなり、所々で巨岩が露出、とくに地蔵ヶ岳山頂の高さ六〇メートルほどの岩峰は、その特異な姿が山麓からも望見され、当山のトレードマークとなっている。大日岩・地蔵仏、あるいは地蔵のオベリスクとよばれるこの岩に明治三七年(一九〇四)日本アルプスの紹介者として知られる英国人ウォルター・ウェストンが初登攀し、日本における近代アルピニズムの幕が開けられた。山頂からの眺望はすばらしく、北には甲斐駒ヶ岳のダイナミックな稜線が躍り、日本第二の高峰北岳から間ノ岳・農鳥岳と続く白峰三山のスカイラインは西方、野呂川(早川)の谷を挟んで指呼の間である。
主峰三峰に地蔵・観音・薬師の名があるように古くから信仰の山で、弘法大師開山の伝説もある。江戸時代には頂上に鳳凰山権現(鳳凰山大神とも)の石祠が祀られ、北麓の柳沢村(現山梨県武川村)にある里宮雄山神社から石空川沿いに登った。旧暦の八・九月が登拝期間で例祭日は九月九日、参詣者は途中石空川にかかる精進ヶ滝で沐浴潔斎した。また六・七月に登山する者がいると権現の怒りによって天候不順を招き、秋の実りに災いが生じるとされていた。当山東方、釜無川を挟んで対峙する茅ヶ岳の西麓、現在の韮崎市東部から明野村にかけての地域では次のような伝承も語り継がれている。かつて同地域は水利に乏しく畑作が主で、小さな池を掘ってわずかな水を確保していた。韮崎市穂坂町三ッ沢の牛池、同宮久保の鳥之小池もそうした池の一で、水不足に悩む茅ヶ岳西麓の人々が年々雨乞いのため鳳凰山に登山するのを哀れんだ山の神が、農牛と農鳥を遣わして両池を掘らせたというものである。これは全国各地にみられる山腹の残雪の形によって播種の時期を知る習俗に関連して生じた説話で、観音ヶ岳の東面に五月頃姿を現すのが農牛で、農鳥は農鳥岳のそれである。鳳凰山が水神・農業神として崇められていたことがうかがえる。
鳳凰の山名由来については諸説がある。主なものをあげると法王(仏法の王、大日如来とされる)が姿を現した山であるから、奈良法皇(奈良王ともみえ、孝謙天皇とも道鏡ともいう)が登った山であるから、古くは大鳥ヶ岳・大鳥ヶ根とよび大鳥に鳳の字をあてたことによる、などである。江戸時代、当山を大鳥ヶ岳とよんでいた史料もみられることから、大鳥説が有力である。さらに大鳥の由来については山の姿を大鳥に見立てたとするのが一般的であるが、地蔵のオベリスクを「おおとんがり」とよび、これが変化したとする説もある。一方、奈良法皇登山説は当山の南麓、現在は白峰三山への登山口の一となっている野呂川沿いの早川町奈良田が発祥地のようである。同所では孝謙天皇(あるいは道鏡)遷居の伝説や、同天皇にまつわる七不思議といった説話が残されている。一九世紀前半、甲府勤番支配松平定能が幕府の内命を受けて編んだ『甲斐国志』はすぐれた地誌として広く知られているが、同書も江戸時代に奈良田村が免租であったことについて
「奈良王ノ旧跡奈良田村(中略)里人奇偉ヲ伝ヘテ相誇ル昔時某帝此ノ所ニ遷幸アリ是レヲ奈良王ト称ス其ノ皇居タル故ヲ以テ十里四方万世無税ノ村ナリ」
との言い伝えを載せる。もっとも定能は同所が寒冷な山間僻地にあって農耕に適さないため税がないのであって、特権が奈良王に淵源するというこの伝説は単なる付会と一蹴している。しかし、当山が孝謙天皇と関わりのある山との伝承は山麓に広く分布する。韮崎市の御座石温泉は北側から縦走する場合の登山口の一で、温泉名は周辺が古く御座石山と称されたことに由来する。孝謙天皇が座った石を御座石と称したことから名付けられた山名という。『甲斐国志』は孝謙天皇との関わりについては触れず、「十数年前潦水ニテ山崩レ土中ニ埋レテ今ハ亡シ」と当時すでになくなっていたと記すが、現在も薬師ヶ岳から東に延びる尾根の一ピークに御座石の名がある。
ところで明治四三年(一九一〇)陸地測量部が作成した五万分一図で現在の呼称である三山の総称として鳳凰山の名を採用したことから、地蔵ヶ岳一峰のみの呼称とすべきとする一山説、観音・薬師の二峰の名だとする二山説、それに三山説との間で山名論争が起こっている。検証してみると三山説も古くから使用されていたが、地元での呼び方は地蔵一峰のみとする一山説とする史料が多かった。二山説は江戸時代に甲府城下など少し離れた地(三峰の区別がつけにくい所)で生まれた呼称ということで廃れていった。昭和一〇年代以降、五万分一図で採用された三山説が浸透、一般的になったために三山説が定着する。しかし、今でも地元の山岳会などでは一山説に帰すべきと主張している。
(H・O)
北から地蔵、観音、薬師と続く鳳凰三山
初出:『月刊百科』1995年10月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである