新田庄一井郷領主大館宗氏と同庄田島郷領主岩松政経との間で繰り広げられていた用水争論は、元亨二年(一三二二)一〇月二七日の関東下知状(正木文書)により終止符が打たれる。用水堀を打ち塞いだとして訴えられた宗氏は、「一井郷沼水」を下流の田島郷へ元通り通水するように鎌倉幕府から命じられた。大館氏、岩松氏はともに新田氏の一族である。しかし、用水をめぐっての争いは一族内では解決できずに幕府まで持ち込まれ、前掲の裁許が下った。
一井郷の遺称地、現群馬県新田郡新田町市野井は、赤城山南方に開けた水田地帯の中にあり、同地の生品神社は新田義貞挙兵伝説の地としても名高い。大間々扇状地の扇端湧水地帯にあたり、地名の由来となったとされる重殿湧水や一の字池など、今でも二〇近い湧水があって貴重な農業用水源となっている。田島郷は市野井の約五キロ南方、太田市の上・下田島や新田町の上田島一帯に比定される。現在同地区の灌漑は渡良瀬川の水を引く用水路長堀幹線(旧新田堀の末端)などに依るところが大きいが、上田島の古老の話によると、近年まで同地区は「ジュウドノの出水」を用水としてもらっていたという。『新田町誌』は水論のあった鎌倉期、一井郷の湧水は湧水点の周囲に堀(沼)をつくって貯水し、水量や水温を調節(冷水を温める)、新田庄在家農民の手によって開削された用水堀によって田島郷など下流域へ農業用水として引水されたと推定している。新田庄域には前掲の重殿をはじめ水殿・増殿・城殿などの地名が分布、すべて水と関連を有する地形環境にあることから、用水供給源である湧水や池を信奉する「水殿」という意味に由来するとみられ、太田市の脇屋には重殿神社、沖野には増殿神社がある。
新田庄が立地した大間々扇状地は、赤城山東南麓の群馬県山田郡大間々町を扇頂部として、東は太田市の八王子丘陵、金山丘陵を結ぶ線、西は佐波郡赤堀町、伊勢崎市を結ぶ線に画される。南北約一八キロ、東西は扇端部で約一三キロに及んで、栃木県の那須扇状地(那須野ヶ原)、東京都の武蔵野台地と並ぶ関東地方有数の大型開析扇状地で、中央を南流する早川をほぼ境に、地質学的に東西に大きく二分される。西部には古代佐位郡、中世淵名庄(佐位庄)、東部には古代新田郡、中世新田庄がいずれも扇状地扇端部の湧水を用水源として、下方の沖積低地を開発するという形で展開した。しかし、大間々扇状地を形成した渡良瀬川は、有史以前に東へ大きく曲流して流路が同扇状地から外れたため、一般の扇状地形よりさらに水利条件は悪く、大規模な用水工事が早くから試みられている。加えて降灰による被害も確認される。国指定史跡の女堀は、上野国の田畠に壊滅的な打撃を与えた天仁元年(一一〇八)七月二一日の浅間山大噴火(『中右記』同年九月五日条)によって荒地となった淵名庄の耕地を再び水田にしようとしたものとする説もあり、一二世紀中頃の開削とされる。未完に終わったものの古利根川(現在の桃木川・広瀬川)から揚水し、赤城山南麓の洪積台地を延々一二キロにわたって通水する壮大な計画であったと推定される。一五世紀中頃の開削ともいわれる新田堀は渡良瀬川から引水、大間々扇状地の扇端湧水帯をつないで西流し、南へ向きを変えて利根川支流の石田川へ落水させるもので、新田庄経営に大きく関わったと考えられる。
新田庄域の湧水(井)については自然湧水説、人工的な手が加わったとする説など意見が分れている。吉田東伍は「是等の井と申す名前は、皆人工と見て宜かろう」として人工説、群馬県立大泉高校教諭の沢口宏氏は自然湧水説をとる。また群馬県史編さん室の能登健氏の説は示唆に富んだものといえる。源泉周囲の自然地形や溜井のあり方などで湧水を幾つかのパターンに分類、源泉が谷頭中央にあって周囲に縄文遺跡を伴うものが自然湧水、それ以外は人工的掘削によるものとし、開発の時期なども推定している。同氏によれば市野井の重殿は人工的なもので、新田庄の湧水には意外と人工的なものが多いという。一〇世紀に編まれたわが国最初の分類百科事典『和名抄』では、「井」の本義は地をうがって泉を取水することとあり、「井」は泉より人工的なものといえる。
大間々扇状地の東部扇端湧水帯には昭和四三年(一九六八)当時で六〇近い湧水が分布し(新田町誌)、市野井のほかにも新田町には金井・小金井、太田市には寺井など井のつく地名が帯状に並んでいる。同様に那須扇状地の扇端湧水帯には今泉・桜井(現太田原市)、武蔵野台地の湧水地帯には小金井・貫井(現小金井市)、井草(遅野井とも、現杉並区)など水にまつわる多くの地名が残り、水利に乏しかった扇状地に住む人々の水に対する執着をうかがわせる。
(H・O)
扇状地に美田が広がる生品神社一帯
初出:『月刊百科』1987年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである