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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第9回 通浦 
【かよいうら】
2

山口県長門市通
2007年10月19日

 萩市・長門市などの海岸や島々は北長門海岸国定公園に指定されている。その長門市仙崎(せんざき)と瀬戸をはさみ、指呼の間に青海(おうみ)島が横たわる。今は二六〇メートルの青海大橋で結ばれるが、東西に長く、北側は北海(きたうみ)とこの地方でいう日本海の冬の荒波に海食された断崖・奇礁が多い。東南部は本州との間に大きく海を囲むが(仙崎湾)、その東南端に通浦の集落がある。
 通浦はかつて通島とも記された。通浦の浄土宗向岸(こうがん)寺は応永七年(一四〇〇)から九年に書写された『大般若経』を蔵するが、その奥書に「通島海雲山西福寺」とあり、慶長五年(一六〇〇)の検地帳にも「通島」とみえる。「通浦」の方は下って享保一三年(一七二八)の『防長地下上申』にみえ、弘化四年(一八四七)脱稿の『防長風土注進案』は「通浦」を独立村として、詳細な記録をのせている。
 近世の通浦は漁業を中心とし、とりわけ鯨漁で知られていた。

『古事記』の歌謡にある「いすくはし久治良障(くぢらさや)る」のクヂラを鷹とする説もあるが、日本海の鯨についても、古く『壱岐国風土記逸文』に記される。

鯨伏(いさふし)(さと)郡の西にあり。昔者(むかし)(わに)(いさ)を追ひければ、(いさ)、走り来て(かく)り伏しき。(かれ)鯨伏(いさふし)と云ふ。(わに)(いさ)と、竝に石と化()れり。相去ること一(さと)なり。(くにひと)(くぢら)を云ひて伊佐(いさ)と為す

 海中を悠々と泳ぐこの動物を、古代人たちはいかに見ていたのであろうか。鯨の異称「いさな」((いさ)())は古代から使われ、「勇魚(いさな)とり」の語は海・浜・灘などの枕詞となっている。その姿の印象深かった様子が察せられる。
 鯨捕りは和歌山県の熊野地方や高知県の土佐湾など太平洋岸の漁場が早くから知られるが、日本海で本格的に行なわれるようになったのは、近世初頭以降らしい。佐賀県唐津の捕鯨は天正頃といわれ、紀州熊野の漁夫を雇い入れている(『松浦風土記』)。また安永二年(一七七三)に木崎盛標が著した「鯨一件の巻」(『肥前州産物図考』所収)は、「近国漁猟有之場」を列挙している。

壱岐国 前目(まえめの)浦・勝本浦
平戸 あつちの大島・かきの浦・生月(いきつきの)
五島 柏浦・有り川浦・魚ノ目浦・黒瀬・いたやの大島・浮嶋
対島 わにの浦・まわりの浦
筑前 かしめの大島・おろの島
長門 かよひの浦・せんざき浦

 通浦の捕鯨の起りは不明だが、萩藩では明暦三年(一六五七)に、寄り鯨並に突き鯨の運上銀賦課の規定を設け、浦人に鯨組の組織をさせている。延宝元年(一六七三)には藩費で縄網(鰯網)を丈夫な苧網に替えさせ、捕鯨の技術が一段と進歩したといわれる。縄網代(あじろ)による捕鯨は延宝五年の瀬戸崎浦(現仙崎)鯨組との覚書に「鯨網代にて取申候儀、近年初り申に付て」とあり、この頃であったろう。
 鯨は冬から春にかけ、東から湾内に入ってくる。湾内での捕鯨は瀬戸崎浦の鯨組と共同で行なったが、湾外では通浦単独での漁猟が認められていた。元禄三年(一六九〇)の両浦の定書(『防長風土注進案』所収)は次の通りである。

一、内海両浦出相寄相所之鯨漕申儀、初魚壱本之儀は遠近之沙汰にかまわす突留候海之方漕可申事
附、何々海たり共一浦して突留候は突留候浦漕可申事
一、同つれ魚突候節は大之分突留候海之方漕、小之分遠近之沙汰を以両浦之内へ漕可申事
一、同しら子持突候節は、子母につけ漕可申候、子は数之内に仕間敷候、尤しら子と候ても前々之分に御運上は可指出候事
右初魚之鯨漕申儀若此相定候條、此辻を以可有沙汰候


 『防長風土注進案』によれば、通浦の産業は鯨漁銀八〇貫目、鰯網漁が同じく八〇貫目、鰺鯖漁五〇貫目。人家竈数二五〇弱のうち漁人一六〇軒、商人四〇軒。船数一九〇艘のうち漁船一五四艘、鯨船六艘・惣海船七艘とある。ちなみに米は七五石三斗九升余の収穫である。

 向岸寺の五代、讃誉上人は延宝七年に観音堂を建立したが、これは鯨の供養を念じてのことといわれる。元禄五年には通浦鯨組の布施によって堂の入口に鯨墓(青海島鯨墓として国指定史跡)が建てられ、毎年六月二九日から三日三夜の間、漁師やその家族が観音堂に集まり、鯨供養の法要が営まれていた(現在は四月下旬に営まれており、今年は四月二〇日‐二五日であった)。墓石は花崗岩で総高七尺三寸、幅一尺四寸、正面に「南無阿弥陀仏、業尽有情雖放不正故宿人天同証仏果」と刻まれる。
 また天保一五年(一八四四)から嘉永三年(一八五〇)の間の『鯨鯢群類過去帳』が現存するが、鯨にはそれぞれ、遊海寂念・示幻泡影・鯨海遊心・得道慈海などの戒名がつけられており、浦人が鯨によせた感謝の心を今に伝えている。

(K・Y)

 鯨法會   金子みすゞ
 
鯨法會は春のくれ、
海に飛魚採れるころ。
濱のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、
村の漁夫が羽織着て、
濱のお寺へ急ぐとき、
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こひし、こひしと泣いてます。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。

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初出:『月刊百科』1978年6月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。