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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第2回 地名の表記と変遷(3)

2007年03月09日

地名表記の二字・好字化

 奈良時代初期、政府は歴史書の編纂などを行って国家の勢威を誇示する一方、農業をはじめとする諸産業の発達を奨励し、中央集権体制を強化する政策を次々に実施した。『続日本紀』和銅六年(七一三)五月二日条に「制、畿内七道諸国郡郷名着好字」とあり、これに基づいたとみられる『延喜式』民部省には「凡諸国部内郡里等名、並用二字、必取嘉名」とみえる。それまで一~四字と不統一で、一つの地名に幾通りもの文字使いがあった国・郡・郷(里)などの行政地名を、中国風の二字・好字に改訂し、固定化させようとしたもので、中央政権の地方支配を貫徹せんとするものであった。なお国名については、すでに大宝令制下で改訂が進んでいたとみられ、郷名の改訂が完成するのは神亀年間(七二四~七二九)に至ってからと推定されている。この政策は漢字表記の次におとずれた地名変革の第二波といえる。

和名抄

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 二字・好字という制約によって地名はどう変化したかみてみよう。遠敷(おにゆう)郡は若狭国の郡名で現在でも福井県遠敷郡があり、かつて郡の中心であった小浜(おばま)市には大字遠敷がある。いわゆる難読地名に属するものであるが、藤原宮跡出土木簡では丁酉年(六九七)の「若狭国小丹生評岡田里」の塩貢進札をはじめ、すべて「小丹生」と表記されている。平城宮跡出土木簡では和銅四年四月の荷札に「遠敷郡」が初めてみえ、同五年一〇月の荷札に「小丹生郡」、同六年以降は「遠敷郡」となる。このことから和銅六年制以前に「小丹生」から「遠敷」への二字化が試みられ、和銅六年制で固定化されたと考えられる。一般に「丹生」は「丹」すなわち朱砂(水銀鉱)の産地といわれ、古代、郡内には小丹生(おにゆう)(遠敷)郷・丹生郷もあるので、「小丹生」と表記すれば意味も読みも判りやすい。「遠敷」は字音の「遠」(オン)と「敷」(フ)を合わせて「オニュウ」と読ませるものだが、充当文字は地名の音を伝えるだけで、もはや原義は等閑にされてしまっている。また『和名抄』には拝志(はやし)・拝師(はやし)あるいは拝慈(はやし)(慈は志の誤写カ)という郷が一七郷記載され、おおかた西日本に分布している。平城宮跡出土木簡に河内国志紀郡拝志郷が「少林郷缶入清酒(中略)志紀郡」、讃岐国山田郡拝師郷が「讃岐国山田郡林郷」とみえ、山城国紀伊郡拝志郷は天平宝字二年(七五八)九月一日の阿刀老女等啓状(正倉院文書)に「林郷」とあり、越中国砺波(となみ)郡拝師郷には式内社の林神社がある。つまり、これら一連の拝師・拝志地名は、『和名抄』の訓註にもあるとおりハヤシと読み、もと林という分かりやすい自然地名を二字化したものであることがわかる。一字地名を二字化するために画一的に処理した感は否めず、このことは上・中・下という、どこにでも普通にある位置を示す地名が、賀美・那賀(那珂)・資母の表記に統一されているのに似ている。

 国名の上野・下野の場合、古くはカミツケヌ(ノ)、シモツケヌ(ノ)と称し、上毛野・下毛野と表記されていた。藤原宮跡出土木簡にも「上毛野国車評」「下毛野国足利郡」がみえる。二字化政策により、それぞれ「毛」を省いて上野・下野となったが、音は音韻学的にも脱落しやすいとされるヌ(ノ)が落ちてカミツケ・シモツケとなり、カミツケはさらにコウヅケに訛って今に至っている。また上毛野国「車評」は二字・好字化して「群馬郡」と表記され、後にグンマと読んで現県名となった。同じように充当文字によって後世、音が変わったものに「味蜂間」がある。飛鳥京跡苑池遺構出土木簡に「三野国安八麻評」とあるので、アハチマと言ったのは明らかであろうが、二字・好字化で「安八郡」と表記され、現在はアンパチと称している。

 こうした律令制下の行政地名の改訂は造籍を前に実施されたと推測されており、中央政権による地方把握の徹底という点からも全国的に脱漏はなかっただろう。ただその実態は官僚的な利便さの追求と、国家の威信を示すための潤色に過ぎず、たった二文字が本来の地名の持つ意味をさらに遠ざける結果をもたらした。これらの地名は少なくない確率で、なんらかの形をとどめながら現在まで伝えられていると推測される。ある程度の転訛はあっても、地名の音は文字に関係なく頑固に残り続けるとみられるのである。勿論、クルマ・アハチマが充当文字に曳かれてグンマ・アンパチとなるような例もあろう。しかし播磨をハンマとはよばないし、駿河をシュンガとは言わない。酒匂(さかわ)川は神奈川県西部の足柄(あしがら)平野を貫流して相模(さがみ)湾に注ぐ二級河川である。中世、河口付近東岸には東海道の宿場である酒匂宿があった。ところが『吾妻鏡』文治元年(一一八五)五月一五日条に「酒勾宿」とあるように、「匂」はよく似た文字「勾」の誤記である。勾は伊勢国河曲(かわわ)郡を「川勾郡」(平城宮跡出土木簡)と書くようにワとよみ、湾曲したもの、あるいは輪状のものを意味する。現在までのところ「酒匂」表記のもっとも早い史料は永禄二年(一五五九)の北条氏所領役帳で、以後は酒匂として定着する。サカワとは読めないが、音は文字に関係なく残るのである。近所の酒造業者が川に醪を捨て、酒の匂いがしたので酒匂川と名づけられた、という文字に仮託した伝説も生まれた。

結びにかえて

 行政地名のように、ある程度広域な地名ではなく、郷村に近い小字という最小単位の地名でも、人々に意識されなくなった時に、当初の命名の意義は失われる。宝亀八年(七七七)七月二日の大和国佐位庄券(東寺文書)は、飛鳥の川原(かわら)寺に寄進された耳成(みみなし)山北東にある四カ所の田地に関する文書で、各田に場所を示す条里坪が記されている。そのうち一所は十市(とおち)郡路東二三条二里(耳梨里)三五坪の「画工田」にあった。また川原寺の所領を列挙した寛弘三年(一〇〇六)一一月二〇日の大和国弘福寺牒(天理大学附属天理図書館所蔵文書)には同坪名を「会工」と記している。これを前掲の『大和国条里復原図』でみると、北西隣の坪に「枝組」という小字が現存しており、枝組は古代の絵師集団である画工(エダクミ)に関係のある地名だということが推測されるのである。当初、画工に与えられた土地が画工田という坪名となり、のちにエダクミの音に会工・枝組の文字が充当されたと考えられよう。現存する枝組の地名を見るだけではおよそ想像のつかない歴史があるといえる。

 地名研究は主に言語学や民俗学との相互補完により発展してきた。地名を歴史研究の一助となしうるためには、地名に対する信頼がなければならないが、すでに述べたように、日本の地名は命名後、容易に変転する傾向があり、実態は掴みにくいものがある。しかし近年、藤原宮(京)跡・平城宮(京)跡などから出土した木簡群により、古代地名の成立や変遷過程などが次第に明らかにされるようになってきている。奈良文化財研究所では木簡データベースを作成・公開しており、これまで文献史料に限りがあった地方の地名研究を大いに推進させるものとなろう。また地名が歴史の一端を担いうるかどうかという作業が、中・近世史の研究者の間でも行われるようになり、例えば荘園史料と現存小字との比較研究によって、かつての荘園景観を復原する試みもなされている。

 今、地名研究に求められるものは二つある。一つは全国的な規模での小字図の作成であり、もう一つは文献史料・古地図・金石文等の諸資料によって、個々の地名の履歴を調査・整理することである。昭和五四年の『京都市の地名』刊行に始まった「日本歴史地名大系」は、平成一六年(二〇〇四)「福岡県の地名」刊行で完成した。実に二五年をかけた大事業であった。全国の歴史地名を網羅した同大系は今後の地名研究の大きな資源となり、日本の地名解明に緒を付けるものとなろう。

初出:『歴史地名通信』<月報>50号(2005年・平凡社)

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