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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第61回 吹浦
【ふくら】
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辺境の修験の里
山形県飽海郡遊佐町
2012年02月10日

吹浦は、鳥海ちょうかい山の裾野が日本海に延びる舌状台地の突端に位置し、台地南端から南へ三五キロにわたって庄内砂丘が伸びている。吹浦の集落は性格を異にする北部の横町と南部の宿町とから成る。横町は鳥海山を神体とする大物忌おおものいみ神を祀る大物忌神社の口之宮の門前集落として発達、江戸時代末まで衆徒二五坊と社人三家が並び、鳥海修験の一拠点となっていた。一方、南部の宿町は砂丘の東側を通る浜街道と内郷街道の結節点にあたり、文字通り宿場町として形成された。宿町の南端を吹浦川が西流し日本海に注いでいる。

吹浦川の上流である月光がっこう川は、鳥海山の火山湖“とりうみ”を源とし、峡谷をぬって西流する。峡谷には華厳・不動などを冠した滝や淵があり、鳥海修験活動の痕跡をとどめている。日光にっこう川も鳥海山から日本海に流れつく川で、月光川の南方を流れ、流域には鳥海修験のもう一つの拠点であった蕨岡わらびおかがある。

鳥海修験の拠点は吹浦や蕨岡のほかにも秋田側の矢島やしま滝沢たきさわ小滝こたきなどがあり、鳥海山一帯には観音森や文珠岳など信仰にかかわる地名が散見される。二つの河川に日光(向)・月光両菩薩の名を、山野に不動・観音・文殊などの名を付した修験者たちは、この地の自然景観に曼荼羅の世界を投影させていたのだろう。

大物忌神は古代の中央貴族たちにとって、北方の蝦夷の侵入を事前に察知し警告を発する守護神であると同時に、『続日本後紀』承和七年(八四〇)七月二六日条にあるように、都に物怪もののけを出没させる祟りの神でもあった。六国史によると、東北地方の神々の神階がほとんど五位どまりなのに対して、大物忌神は元慶四年(八八〇)には従二位まで昇っている。ここにこの神に対する朝廷の姿勢がうかがわれる。

当時の中央貴族が吹浦の西方の飛島とびしまを「止之島」と呼んでいたことからもわかるように、鳥海山一帯は辺境の地、律令国家の北方侵出の最前線として認識されていた。辺境はつねに未知の領域として理解され、やがて未知は禁忌に結びつき、禁忌は畏怖を生む。天皇―皇都―畿内―諸国という当時の国家観念のもとで、辺境の神がその名に「忌」の字を付され、破格の扱いを受けたのは、けだし当然のことであった。

現在、吹浦口之宮の東の社殿には大物忌神、西の社殿には月山神が祀られている。月山神はもと田川郡の月山の神で、元慶の乱の頃に勧請された。以後両神を合わせて両所宮と称するようになったが、承久二年(一二二〇)一二月には幕府から両所宮の造営命令が北目地頭新留守に出され、正平一三年(一三五八)八月には南朝方の北畠顕信によって所領の寄進を受けるなど武士の崇敬も篤かった。

平安中期には、鳥海山一帯に天台教学の教線が伸び、各地に拠点となる道場が成立した。吹浦神宮寺もその一つで、阿部正已の「鳥海山史」(『山形県史蹟名勝紀念物調査報告』)によれば、神宮寺は両所宮の東方台地の麓にあって、大物忌・月山両神に奉仕する寺院であった。古くは神宮寺という本寺と成城坊・東福坊・千手坊などの坊中から成っていたが、いつしか本寺は亡び学頭坊を号する光勝寺が寺務を行なったという。暦応元年(一三三八)銘の月山神の本地仏阿弥陀如来像と、永正三年(一五〇六)銘の大物忌神の本地仏薬師如来像が安置されていたが、近代に入っての神仏分離によって女鹿めがの松葉寺に移された。なお神宮寺は秋田側の小滝にもあって、そこでも大物忌神の本地仏として観音菩薩が安置されていたという(現在は秋田県象潟町の小滝金峰神社蔵)。これは鳥海山における本地垂迹の体系、曼荼羅のイメージが重層的な構造を持っていたこと、鳥海山一帯の交流が重層的であったことを物語っている。

江戸幕府の宗教統制が強まる中、寛永一六年(一六三九)真言密教の色彩が濃かった吹浦・蕨岡の本山である羽黒山が天台宗となった。しかし、蕨岡は独自の立場を貫いたらしく、貞享年間(一六八四‐八八)には醍醐寺三宝院末となり、一山の行事を当山派修験として順峰の法式とし、羽黒山から離脱している。それに対して吹浦は、神宮寺に天台の僧徒が住み鎮護国家の祈祷を行なったとの説もあり、法階の補任も羽黒に委ねられていたといわれるほど、羽黒山の影響を強く受けていた。

承応三年(一六五四)蕨岡が、学頭坊である松岳山観音寺の守札に鳥海山と記し、吹浦衆徒の山頂への参拝を差止めようとしたため争論が起きている。吹浦の鳥海山頂に対する権限が蕨岡に比べて弱かったのは、両所宮や神宮寺が置かれていたという事情から、吹浦では大物忌神社の本宮は吹浦であって、山上は奥宮に過ぎないという意識が強く、山頂を目指す修行よりも里宮での祭祀に重点を置いていたためと思われる(『東北霊山と修験道』)。

明治初年の神仏分離後、吹浦・蕨岡はともに大物忌神社を公称することとなったが、蕨岡学頭坊だけは真言寺院として残った。明治一四年には鳥海山上の社殿を本殿とし、双方にあった社を口之宮とした。

吹浦では、現在でも物忌神事や管粥神事とならんで、飛島と口之宮と山頂を結ぶ火合せ神事が行なわれている。

 

(S・K)

飛島は酒田港の北西約39キロの日本海上に浮かぶ。


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初出:『月刊百科』1990年2月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである