伊勢・伊賀境の
榊原の地名について近世の地誌『五鈴遺響』は、「古ハ堺原ト名タルヲ、後ニ訛リ転タルナルヘシ、今案スルニ、其故ハ本郡ト安濃郡ノ堺ナルヲ以テ知ルヘシ」と述べるが、この説を採るものは少ない。明治二一年(一八八八)に村から三重県庁へ提出した『地誌取調書』などは、北畠権少将国永家集(『勢陽雑記』所引)にみえる「天照太神へ此所より榊を取りて参らせ上る事の、むかしはけんみつなりし」を典拠にして、伊勢神宮へ榊を献上していたのを地名の由来とする。しかし当地は神宮領荘園の中にその名がみえないので、この説も地名説話的傾向の強いことは否めない。
榊原温泉は既に平安時代には温泉の湧出が都の人々に伝えられ、当地
いちし(一志)なる岩ねに出づる七くりの
けふはかひなきゆにもあるかな
橘俊綱朝臣
此歌は、ふしみにゆわかして大納言経
信卿をよび侍けるに、こざりければ、つ
かはしけると云々
いちしなる七くりの湯も君が為
こひしやますときけば物うし
大納言源経信卿
このころから「七栗の湯」は、歌枕として、あるいは「湧く」に係る枕詞として、しばしば和歌に登場する。
しかし実際にこの榊原の地を踏んだうえで詠まれたことが確実な和歌となると、戦国時代、北畠氏の一族で、左近衛少将まで昇った北畠国永のものが最も古いようである。国永家集は「十月計りに、榊原湯治の為に趣き侍りしに」とか、「思わざる事有りて、榊原と云所に年経て住侍りしに」などの詞書のついた和歌二五首であって、それによると国永は相当長期間ここに滞在し、山里の風光を賞美したらしい。
榊原清岩寺に籠り居たるに、かし鳥日
毎に来れば、
深山辺に住めば友とや馴木つつ
軒端をちかくあさるかし鳥
二月廿一日極楽寺の糸桜を二首
打なびく枝は柳の朝露に
ふかき色こそ糸桜なれ
春風も散らさぬ程の庭の面に
乱れて匂ふ糸桜かな
現地の風物を詠み込んだものが多いが、それらの多くは、
これらの和歌を通じて感じられるのは、国永の榊原滞在は、何らかの原因による失意の生活であったらしいことであるが、「榊原右衛門大夫身まかりける、法名浄光となん」と題して一首を作り、またその浄光の三回忌にも一首を詠んで贈るなど、在地の人々との交流のあったことが知られる。『勢陽雑記』によると、榊原右衛門大夫とは、榊原城主氏経の弟であり、殺伐な戦国の世の、しかも鄙びた山村に、一時期優雅な文化の香りがただよったことをしのばせる。
幕末、木版におこされた『温泉来由記』によると、泉源はもと川の北岸に屹立する
これらの施設は、正徳四年(一七一四)失火によって全焼したこともあるが、藤堂藩の援助を得て復興した(榊原温泉来由記)。享保一二年(一七二七)三月の年記をもつ榊原村湯元之図によると、湯屋は大きい湯船二部屋、小湯船一部屋のほか、座敷などのついた建物で、射山神社背後の河原にあり、客舎は社殿の東側に東西に五棟、南北に二棟の長屋が並んで郭を形作っている。部屋数は大小合わせて七八、別に番屋も二棟あるなど、その規模の大きさが知られる。
多くの湯治客が集り、しかも湯治場という性格上、風紀秩序が乱れがちであったとみえ、藤堂藩は「博奕堅可致停止之候、勿論湯人迄も此旨相断置、若不用之法外之輩於有之者、早速湯所送り出し可申事」など九条からなる高札を掲げて取締った。
(H・M)
初出:『月刊百科』1980年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである