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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第62回 榊原温泉
【さかきばらおんせん】
55

三重県久居市榊原町
2012年04月06日

伊勢・伊賀境の布引ぬのびき山中に発した榊原川は、安子谷あごだに川・湯之瀬川を合わせて伊勢側の布引山地東麓を流れるが、榊原温泉はその流域、旧榊原村の地にある。榊原は川沿いの東西に長い地形の村で、大部分は山地であるが、東部は榊原川の左右に平地がひらける。

榊原の地名について近世の地誌『五鈴遺響』は、「古ハ堺原ト名タルヲ、後ニ訛リ転タルナルヘシ、今案スルニ、其故ハ本郡ト安濃郡ノ堺ナルヲ以テ知ルヘシ」と述べるが、この説を採るものは少ない。明治二一年(一八八八)に村から三重県庁へ提出した『地誌取調書』などは、北畠権少将国永家集(『勢陽雑記』所引)にみえる「天照太神へ此所より榊を取りて参らせ上る事の、むかしはけんみつなりし」を典拠にして、伊勢神宮へ榊を献上していたのを地名の由来とする。しかし当地は神宮領荘園の中にその名がみえないので、この説も地名説話的傾向の強いことは否めない。

榊原温泉は既に平安時代には温泉の湧出が都の人々に伝えられ、当地七栗ななくり郷の名から「七栗の湯」の名称で知られた。『枕草子』一本にある「湯はななくりの湯」云々の文は、後世に竄入の恐れがあるとしても、関白藤原頼通の子橘俊綱(伏見長者)と大納言源経信との間で、「七くりの湯」を題材として行われた和歌の贈答は、その優雅さの故に、『夫木和歌抄』の温泉の部に収載されて知られている。

いちし(一志)なる岩ねに出づる七くりの
けふはかひなきゆにもあるかな

橘俊綱朝臣

此歌は、ふしみにゆわかして大納言経
信卿をよび侍けるに、こざりければ、つ
かはしけると云々

いちしなる七くりの湯も君が為
こひしやますときけば物うし

大納言源経信卿

このころから「七栗の湯」は、歌枕として、あるいは「湧く」に係る枕詞として、しばしば和歌に登場する。

しかし実際にこの榊原の地を踏んだうえで詠まれたことが確実な和歌となると、戦国時代、北畠氏の一族で、左近衛少将まで昇った北畠国永のものが最も古いようである。国永家集は「十月計りに、榊原湯治の為に趣き侍りしに」とか、「思わざる事有りて、榊原と云所に年経て住侍りしに」などの詞書のついた和歌二五首であって、それによると国永は相当長期間ここに滞在し、山里の風光を賞美したらしい。

榊原清岩寺に籠り居たるに、かし鳥日
毎に来れば、

深山辺に住めば友とや馴木つつ
軒端をちかくあさるかし鳥

二月廿一日極楽寺の糸桜を二首

打なびく枝は柳の朝露に
ふかき色こそ糸桜なれ
春風も散らさぬ程の庭の面に
乱れて匂ふ糸桜かな

現地の風物を詠み込んだものが多いが、それらの多くは、清岩せいがん寺が既に廃絶していたり、糸桜が明治二七年刊の『榊原温泉来由記』には古木として記されていても今は枯死してその跡形もないように、ほとんどが亡び去っている。
これらの和歌を通じて感じられるのは、国永の榊原滞在は、何らかの原因による失意の生活であったらしいことであるが、「榊原右衛門大夫身まかりける、法名浄光となん」と題して一首を作り、またその浄光の三回忌にも一首を詠んで贈るなど、在地の人々との交流のあったことが知られる。『勢陽雑記』によると、榊原右衛門大夫とは、榊原城主氏経の弟であり、殺伐な戦国の世の、しかも鄙びた山村に、一時期優雅な文化の香りがただよったことをしのばせる。

幕末、木版におこされた『温泉来由記』によると、泉源はもと川の北岸に屹立する貝石かいせき山(射山神社御神体の磐座)の北方山裾にあり、その山の中腹に射山いやま神社の社殿があったが、社殿を現在地に遷したところ、湯もまた移って、社殿のすぐ背後の河原から湧出するようになった。「神湯」の所以でもある、という。湯屋と滞在者用の客舎を作って、湯治客の用に供するようになったのも、これからといわれる。
これらの施設は、正徳四年(一七一四)失火によって全焼したこともあるが、藤堂藩の援助を得て復興した(榊原温泉来由記)。享保一二年(一七二七)三月の年記をもつ榊原村湯元之図によると、湯屋は大きい湯船二部屋、小湯船一部屋のほか、座敷などのついた建物で、射山神社背後の河原にあり、客舎は社殿の東側に東西に五棟、南北に二棟の長屋が並んで郭を形作っている。部屋数は大小合わせて七八、別に番屋も二棟あるなど、その規模の大きさが知られる。
多くの湯治客が集り、しかも湯治場という性格上、風紀秩序が乱れがちであったとみえ、藤堂藩は「博奕堅可致停止之候、勿論湯人迄も此旨相断置、若不用之法外之輩於有之者、早速湯所送り出し可申事」など九条からなる高札を掲げて取締った。

 

(H・M)


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初出:『月刊百科』1980年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである