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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第78回 上府・下府
【かみこう・しもこう】
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石見国府名残りの地名
島根県浜田市
2013年04月05日

浜田市はかつての石見国のほぼ中心にあたり、市成立以前は那賀なか郡に属していた。那賀の郡名は石見国の中央に位置することに由来するなどといわれるが、実際に石見国府が置かれた政治的中心でもあった。上府町・下府町は浜田市街の北東に位置し、カミコウ、シモコウの読みから推測できるように、石見国府が置かれていた。もっとも上府・下府の漢字表記から先の読みに到達するのは困難で、難読地名のひとつにあげられよう。
昭和五二‐五四年(一九七七‐七九)石見国府の所在確認のため、島根県教育委員会は下府町横路よころ地区、伊甘いかん神社脇、上府町三宅みやけの集落内で発掘調査を実施した。その結果、瓦や土器は発見されたが、国府としての確かな遺構は検出できなかった。しかし、両町一帯からは国分寺や国分尼寺、国府に関わる寺院とみられる下府廃寺などの遺構が検出されている。また伊甘神社境内のしょう社は総社が訛ったものといわれ、『三代実録』にみえる国府中神(たんに府中神とも)にあたるといわれる。

石見国府の規模や構造などは現在のところ明らかではないが、出雲国をはじめとする諸国の事例から、国司が政務を執る政庁を中心とした方六町前後の限られた空間であったと考えられる。また他国と同じく、九世紀頃にはその歴史的な使命を終え、一〇世紀以後は国衙支配機構の改変や在庁官人制の成立などにより、公文所くもんじょ田所たどころ税所さいしょ以下の多数の官衙や倉庫・在庁官人屋敷などが設置され、あらたな賑いを示すようになったと推測されている。
転換期とみなされる九世紀末、石見国府をめぐる事件として国守襲撃事件があった。元慶八年(八八四)那賀郡大領外正六位下久米岑雄・邇摩にま郡大領外正八位上伊福部直安道らは、百姓二一七人を率いて石見国守の従五位下上毛野朝臣氏永を襲撃し、その政治が法に背くとして印匙・鈴などを奪取、杖をもって打擲するという行為に及んだ。中央政府は推問係の調査結果に基づいて仁和二年(八八六)に関係者を処罰している(『三代実録』元慶八年六月二三日条・仁和二年五月一二日条)。

中世になると、上府町・下府町一帯は府中ふちゅうの名称でよばれるようになる。府中とは前述のような過程を経て一一‐一二世紀以後に新しく成立した政治都市であり、古代の国府域と比べ、その空間領域は大きく広がり、かつその境界線は明確に定められ、政治的・経済的・文化的な中心機能を高め、都市としての実態を備えていたといわれる。
石見国の場合、たとえば府中八幡宮(上府八幡宮)を国府八幡宮(康暦元年八月日「沙弥某書下」府中八幡宮文書など)、付近一帯に成立していた伊甘いかみ郷を国府ともよんでおり(永徳三年八月一〇日「益田祥兼置文」益田家文書)、国府と府中は同義に理解されていたようでもある。府中八幡宮文書のうち最も時代のさかのぼる文書が建治元年(一二七五)と推定される六月二六日の左衛門尉某奉書であることから、中世府中の成立がこれ以前にさかのぼることは確実とされる。また、天文二四年(一五五五)一〇月四日の三宮神社神主岡本兼定知行充行状写(岡本家文書)によれば、東方豊後守に対し府中において与えられた田地二段の坪付は「下苻之中あせひのしり」と「上苻之内ミやうとうかま」であり、府中が上府と下府を中心とする地域から成り立っていたことが知られる。そして、これが上府・下府の地名初見である。
石見府中は留守所るすどころ(久安三年二月一一日「石見国留守所下支」久利家文書など)や田所・税所(貞応二年三月日「石見国惣田数注文」益田家文書)などの諸官衙および市場、あるいは府中八幡宮や福園ふくおん寺(現安国寺)、大輪だいりん寺(正和五年二月二一日「阿忍置文」同文書)、上寺・南岳寺(ともに小地名が残る)以下の多数の寺社が有機的に結びあって構成されていたと推測できる。このうち市場については、平成三年(一九九一)から三年にわたり、安国あんこく寺門前の古市地域において発掘調査が行われ、一一世紀末から一四世紀にかけての大量の土器、中国製陶磁器が出土したほか、多数の住居跡や井戸が確認された。この古市遺跡の地がかつて石見府中の市場として重要な位置を占めたことがうかがわれる。さらにこの市場が南北朝期をもって盛期を終えたことから、石見府中は室町期に石見国守護となり、その後邇摩郡分郡守護に基軸を据えて石見国支配を展開した大内氏の領国支配政策に規定され、次第に衰退していったものと考えられている。

元和五年(一六一九)古田重治は五万五千石を与えられて浜田に封じられた。重治の入部に先立ち、古田将監・勝長兵衛らが領内の益田(現益田市)、三隅みすみ(現三隅町)、周布すふ(現浜田市)など戦国期に城が築かれていた土地を検分した結果、「浜田庄は狭けれども大川の流れあり、左右に湊有りて万端自由よろし」として、上府・下府から南西方にあたる浜田川河口近くを城地とした(「浜田古事書抜」浜田市立図書館蔵)。これによって古代から中世にかけて石見の中心的な位置にあった上府・下府の地は、たんなる城下近在の村、那賀郡上府村・下府村として把握されることになった。

 

(K・O)

古代から中世にかけて石見国の中心的な位置にあった上府・下府地区


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初出:『月刊百科』1995年8月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである