氾濫を繰り返してきた利根川も、明治三〇年代からの改修工事によって流路が定まり、(群馬)県南東部、埼玉県
「島村郷土誌」の利根川流路変遷図などをみても、江戸時代を通して当地を流れる利根川の偏流蛇行ははなはだしい。洪水にたびたび襲われ、その度ごとに流路が変わっていた。島村の中央に
島村は自然条件を包み込んで、江戸時代以来何度か生業の転回をみせる。洪水の被害により耕地が狭小で収入も不安定であったため、立地を活かし江戸時代初頭から舟運業に従事した。とくに盛んになるのは天保(一八三〇‐四四)の頃からで、河岸問屋も二軒置かれたという。五〇〇俵ほど積載できる親船は江戸との物資輸送にあたり、二五俵積の小船は下流の
一方文政(一八一八‐三〇)の頃から徐々に蚕種製造業が普及していく。同年間に続いた洪水により耕地は「砂田」と化したため、日当たり、風通りがよい砂礫地帯に向く桑が植えられていったものとおもわれる。よく知られるように当地方では製糸・絹織物業が盛んであり、この移行は当然ともいえるが、島村ではとくに蚕種製造が主であったことによって、幕末から明治初年にかけて黄金時代を迎える。
蚕種はもと養蚕家の自家製であったがのち分業化され、当地方のものは「上州種」と称され上質との評価を受けた。安政六年(一八五九)に横浜が開港し、元治元年(一八六四)には蚕種輸出禁止令が解かれる。当時ヨーロッパでは蚕に微粒子病が流行していたため輸出価格がはね上がり、島村住民のほとんどがこの機をのがさず蚕種業者となった。「養蚕新論」を著した当村の田島弥平や田島武平は蚕の飼育法の研究に励み、また畑の境界に植える従来の「あぜ桑」から、一面に植え込む「桑園」化も進んだ。蚕種の景気がよくなると多くの賃労働者が来村し、蚕期の人口はふくれあがったという。
明治四年(一八七一)生産過剰と粗悪品の横行のため、蚕種価格の暴落が起こる。島村では田島武平・田島弥平・栗原勘三らが中心となり、翌年島村勧業会社を設立し、蚕種の品質向上と輸出方法の改善を目指した。同一二年には三井物産の援助のもと、イタリアに渡航して蚕種五万枚を直売した。この試みはのち明治一三年と同一五年にもなされたが、価格暴落が続き途絶している。島村の蚕種家田島定邦の手記(「群馬県蚕糸業史」所収)に当時の様子がうかがわれる。
最盛の時は一枚五円八十八銭を呼び、滅亡の時は一枚十八銭に下落す。万事皆斯の如し、豈蚕種貿易のみならんや。余等初年以来蚕種貿易に従事し、身親しく所謂黄金時代に居り、又下落の苦痛を嘗めたるもの、顧みて感慨の転た深きを覚ゆ。
実際破産したものも少なくなく、当村の蚕種家は激減して明治初年の二百数十人から輸出途絶後はわずか三、四十人となり、多くが農業や養蚕業に転業した。
明治の中頃から近隣の伊勢崎銘仙が盛んになり、島村でも賃機が重要な副業となる。同時に蚕種の需要も増加したが、住民はすでに多角的な農業経営を指向し、牧畜や養豚・養鶏などが始められていた。現在はホウレンソウ・ネギ・ゴボウなど蔬菜栽培を中心に近郊農業が営まれ、県内でも屈指の生産を誇っている。
(K・O)
初出:『月刊百科』1987年8月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである