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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第22回 肝煎村 
【きもいりむら】
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月山の北麓、立谷沢七ヵ村の中心村
山形県東田川郡立川町
2008年11月07日

山形県を貫流する最上川は、その流域面積でいえば県全面積の四分の三を占め、県内のほとんどの川が流れ込むが、その支流の一つに立谷沢(たちやざわ)川がある。同川は出羽三山の一つとして著名な月山(標高一九七九.五メートル)を源流とし、出羽山地と庄内平野の境に位置する東田川郡立川町の山間を北流して、最上峡と称される谷間を流れ出た最上川に注いでいる。
立谷沢川上流部では、かつて上質の砂金を産出したほか、流域の村では木流しを農間に行い生計を立ててきた。川沿いに散在する集落は、同川によって結ばれ、ひとつの共同体を形成していた。中・下流に散在していた通称立谷沢七ヵ村は、立谷沢川の氾濫に対し共同で治水を祈願する川祭を執行し、江戸時代の肝煎村に位置する満願(まんがん)寺境内には、天明五年(一七八五)を最古とする七基の竜神供養塔が残っている。

江戸時代初頭、立谷沢七ヵ村は立谷沢村一村として把握されている。元和八年(一六二二)に入部した庄内藩酒井氏の知行目録(酒井家文書)に立谷沢村とみえ、村高は六六九石余であった。寛永年間(一六二四‐四四)の高辻帳(同文書)でも同村名で記載されている。しかし、正保郷帳(千秋文庫蔵)および正保庄内絵図(本間美術館蔵)には立谷沢村の名はみえず、七つの集落ごとに村名が記載されている。すなわち立谷沢川右岸の()(さわ)村・(なか)村・中島(なかじま)村、左岸の鉢子(はちこ)村・(まつ)()村・肝煎(きもいり)村・片倉(かたくら)村の七村である。この七村は立谷沢七ヵ村のほか、清川組七ヵ村などと通称され、互いに密接な関係をもっていた。
その中心であったのが肝煎村である。同村は正保庄内絵図作成のため、牧村才兵衛などを迎えた当時は、万願寺(まんがんじ)村と称していたといわれ(「当座御用手控」清川斎藤文書)、正保期立谷沢村の各集落ごとに村名を記載するにあたって肝煎村と命名されたと考えられる。立谷沢村として把握されていたときより、その中核的な位置にあったのであろうが、この村名は肝煎がいる村であることに由来する。立谷沢七ヵ村の村役人構成は、肝煎村に肝煎が置かれ、ほか六ヵ村には肝煎を補佐する組頭がいるにすぎなかった。寛延元年(一七四八)一〇月、七ヵ村肝煎八左衛門が病気のため肝煎役の免除を願い出たとき、諸事不自由を理由として一村ごとに肝煎役を置くことを嘆願したが許されなかった(斎藤文書)。

立谷沢村の名は以後使用されなかったかといえば、そうではなく、天保郷帳では再び七ヵ村が立谷沢村一村で高付けされている。また立谷沢七ヵ村は肝煎村とも総称されたといわれるが、これは支配領主などからの鳥瞰的な呼称であり、そこで生活する者の間では使用されなかったと考えられる。いずれにせよ肝煎村の名は、ほかの多くの地名のように、その地形などから成立したのではなく、幕藩体制の基盤である村請制を担う村役人の職名に由来することで、きわめて近世的な村名であるということができよう。もっともこの名付け方でいくと、江戸時代の村のほとんどが、肝煎村・名主村・庄屋村となってしまい、個別の土地を指す地名の役割を失ってしまう。敢えて名付けられたところに、立谷沢川沿いの山間に散在した立谷沢七ヵ村の特徴をうかがうことができると思える。

出羽国では村の長を肝煎と称する場合が多いが、一般的には名主、庄屋と呼ばれた。おもに東日本で名主、西日本で庄屋の称が使用されるが、支配領主による相違もみられるようで、一概にその地域的分布を明らかにすることはできない。いずれも中世以来の在地有力農民の系譜を引き、多くは世襲制であった。「名主は百姓役ながらも政事に拘わり、上の役人の口真似をも致す者」であり(『地方(じかた)凡例録』)、その業務は多岐にわたった。出羽庄内藩の農村支配機構は、寛永年間にはほぼ固まったとされ、郡代―郡奉行―代官―大肝煎の下に、村役人として肝煎―組頭―長人(おとな)百姓が置かれた。肝煎の業務は法令の伝達・徹底、年貢諸役の賦課・納付などのほか、家数・人数改め、治安・風紀取締り、勧農や用水・道・橋普請、各種証文の発行など村行政全般に及び、「肝煎」の語義のひとつである「世話をする」にふさわしい。庄内藩の場合、その給与として村高の一パーセントが支給され、肝煎壱歩給といわれた。

村役人は職務上の特権を活かし、富を蓄積することも多かった。角田二口(すまたふたくち)村(現東田川郡三川町)の草分け百姓とされる佐藤東蔵家は代々肝煎を務めたが、酒屋を営むかたわら郷蔵に納められた米を酒田や鶴ヶ岡などの城下や有力商人に売却し、文政二年(一八一九)には俵田渡米一千一二三俵を得るまでに成長している。また文化年間(一八〇四‐一八)には苗字帯刀、二人扶持を許された。もっとも庄内藩の支配機構の中で、肝煎の上には大肝煎がおり、『小川記』の「肝煎は小肝煎に御座候えば、大肝煎を支配頭と心得居り候」という体制が固められており、肝煎村も清川組大肝煎の管轄下にあった。大肝煎の呼称は元禄年間(一六八八‐一七〇四)頃に大庄屋に改称され、正徳年間(一七一一‐一六)には一般化したとされている。肝煎の呼称も、庄内藩から幕府領となった村では名主に変更されたようである。

(K・O)


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初出:『月刊百科』1990年1月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。