中世、現在の
『義経記』巻二によると、雌伏時代の源義経一行が奥州平泉に向う途中板鼻に至り、伊勢三郎義盛の館に逗留している。義盛はこのとき義経の臣下となり、以後『玉葉』『愚管抄』などに登場するが、源義仲の首級をあげ、また屋島・壇ノ浦での活躍は知られるところである。居所については『源平盛衰記』では
正和三年(一三一四)八月、武蔵国
治承・寿永内乱時には、源頼朝が木曾義仲勢への討手を板鼻宿までさしむけ、永享一二年(一四四〇)の結城合戦でも、結城方信州勢の進出を阻止せんと長尾景仲が板鼻に着陣するなど(『神明鏡』)、上信国境に近い軍事上の要衝としてしばしば軍勢が駐屯した。一二世紀中頃には板鼻八幡宮の預所は上野国守護安達景盛であり、建武四年(一三三七)に同宮及び板鼻を含む八幡庄が守護領として上杉憲顕に預けられている(上杉家文書)。
文亀二年(一五〇二)、ときの管領上杉顕定の母の十三回忌が板鼻
天正一一年(一五八三)六月四日、板鼻の上宿町人衆中にあてた掟書である北条氏邦印判状(福田文書)が出された。八項の一つ書きからなり、「其一、宿之用心」が至上命令の臨戦態勢下にある宿内の様子をうかがわせる。一般の平和条項や「日暮候てから他所へ出入仕間敷候」などの規定とともに、昼夜六人交替の木戸番が置かれ、町人頭による夜毎の人改めがなされていたこと、町人衆中という組織があったことなどが知られる。また「上宿」とあることから、宿内が上・下に分かれ、独自に町共同体を作っていたと思われる。
近世には中山道の宿駅として中世にかわらず繁栄した。板鼻宿は江戸日本橋から一四番目にあたり、東の一三番高崎宿、西の一五番安中宿の間に位置する。中山道上州七宿のうちでも最も栄えたという。中山道は板鼻近辺ではほぼ現在の国道一八号のルートで、板鼻宿の町並は東西に延びていた。寛政三年(一七九一)の御用留(福田文書)によると宿高は一千二九八石余、宿内間数は九町一四間、家数二三二軒であった。本陣・脇本陣は各一軒あり、旅籠屋四三軒が軒を連ねた。嘉永五年(一八五二)の宿明細帳(安中市教育委員会蔵)では人数一千五四九人で、問屋場は上番と下番の二所にあり、市日は二月二九日、五月四日、七月九日と定められている。
本陣は街道の北側にあった本家木島家で、屋敷間口は一五間半、奥行三〇間、四五六坪の面積を有した。現存する書院は寛永(一六二四‐四四)中期の建築で、文久元年(一八六一)の和宮下向の際に使用された。そのとき用意した上草履が保存されている。商人の荷物輸送を業とする中馬宿(高野家)や牛馬宿(金井家)があり、本陣向いの中馬宿の屋敷は間口一九間、奥行三〇間、五七〇坪、本屋の畳数は六〇畳、書院は四七畳という大規模なものであった(『安中市誌』など)。
慶応四年(一八六八)の西上州打毀しの際に、浜屋・肴屋・角屋・角ひしや・穀丈・安居などが打毀しにあっている。
現在の板鼻には往時の面影を残す家は少なく、旧街道沿いの庚申塔・道祖神・道標などに名残りをとどめる。
(K・T)
初出:『月刊百科』1987年2月合併号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである