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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第94回 船通山
【せんつうざん】
87

素戔嗚尊が降臨した山
鳥取県日野郡日南町・島根県仁多郡横田町
2013年11月29日

鳥取県と島根県の県境、かつての伯耆・出雲の国境に標高一一四二・五メートルの船通山が聳えている。しかし、中国山地の脊梁部に「船が通う山」があるのは不思議な感じもする。

この疑問に対しての一つの解答が、天和二年(一六八二)成立の『出雲風土記抄』に載る山名由来である。それによると、素戔嗚尊すさのおのみこと(須佐之男命)が新羅しらぎから土船で東征した折、その船を山頂に置いたという。ノアの箱舟を連想させるような話だが、『日本書紀』の一書に神の国から追放された素戔嗚尊が新羅の国へ降臨したと伝えることから派生した解釈であろう。

なぜ船通山に船を置いたかがはっきりしないが、この山の存在は古代の文献でも確認できる。『古事記』に「出雲国のの河上、名は鳥髪とりかみといふ地に降りたまひき」と記されるのがそれで、須佐之男命の降臨した地とされている。

「肥の河上」とは『出雲国風土記』にみえる「出雲の大川」、すなわち現在の島根県東部を流れる斐伊ひい川の上流部のことで、同書に水源は「伯耆と出雲と二つの国の堺なる鳥上とりかみ山より出で」とあることから、鳥髪山=鳥上山は船通山のことと考えられている。

さらに幕末・維新期の成立とされる伯耆国の地誌『伯耆志』は、上古は鳥髪山の西側・東側は樋速日子命ひはやひこのみこと(『日本書紀』に素戔嗚尊の子神として同名神がみえる)にちなんだ「樋」の呼称をもっていたと述べ、伯耆・出雲両国の川はともに「ヒノカハ」とよばれていたとしている。すなわち斐伊川および鳥取県西部を流れる日野ひの川がこれに当り、二つの川は船通山の山麓およびその近辺を水源としていた。

いずれにしても、神話の中で神が降り立つ地は、清い流れの川上にある高い山とされており、船通山はまさにこの条件を備えていたといえよう。

船通山に降り立った素戔嗚尊は、そこで八岐大蛇やまたのおろちを退治する。そして尾の中から草薙剣くさなぎのつるぎ(天叢雲剣)を得るとともに、自らが救い出した奇稲田姫くしなだひめと結婚し、葦原中国あしはらのなかつくにの基を開いた。この神話にちなみ、現在の山頂には、「天叢雲剣あまのむらくものつるぎ出現之地」記念碑が建てられており、毎年七月二八日には日南にちなん横田よこた両町の合同による祭礼が行われている。

ところで八岐大蛇退治の神話は、大蛇に象徴される水の支配に基盤を置いた野蛮な権威を打破し、稲田の象徴である奇稲田姫を守ることによって、新たな秩序を構築する英雄譚として理解されている。その一方で、八岐大蛇の姿は鉄穴流かんなながしをデフォルメしたものであるという考え方もある。

鉄穴流しとは、たたら製鉄の原料となる砂鉄を水路や河川の流れを利用して、土砂から分離させる採集方法である。それでは、なぜ八岐大蛇が鉄穴流しなのか。

『古事記』に描かれた大蛇の姿は、八つの頭と八つの尾をもち、その体は八つの谷と八つの丘に及ぶ。そして赤いホオズキのような目をもち、その腹は常に血で赤く爛れていたという。

この姿は、山野にめぐらされた鉄穴流しによって、赤く濁った河川、荒れた山、土砂の堆積によって発生する洪水などを連想させはしないだろうか。このように考えれば、八岐大蛇を退治した神話は鉄穴流しによる洪水を防いだ技術の進捗を物語るものかもしれない。

船通山を間に挟んで広がる日南・横田両町の所属郡は、古くから伯耆国日野郡・出雲国仁多にた郡で、この両郡は古代からおのおのの国のたたら製鉄の中心地とされてきた。「延喜式」主計寮に伯耆国の調として鍬・鉄が載るのも、往時の盛況を物語る一例といえる。一帯のたたら製鉄は中世を経て近世に至り、最盛期を迎える。

船通山の北東、日南町下阿毘縁しもあびれに源をもつ印賀いんが川は同町域を流れて日野川に合流するが、鉄穴流しの盛んな河川の一つであった。日野郡宮市みやいち村(現鳥取県日野郡江府町)の下原重仲は、天明四年(一七八四)に製鉄史上の古典とされる『鉄山必用記事』を著したことで知られるが、その中に「伯州日野郡の奥、印賀の郷」は上品の粉鉄(たたら製鉄の原料となる砂鉄)の産地とみえ、『伯耆志』には名産として印賀鋼が記されている。

しかし、印賀川流域各村の利害関係は複雑で、最上流部の阿毘縁郷四ヵ村による鉄穴流しに対し、寛延三年(一七五〇)下流の大宮おおみや折渡おりわたり両村は土砂堆積による河床上昇が河川の氾濫や不作を招くとして訴訟を起している。そのため、鳥取藩は四ヵ村に鉄穴流しの停止を命じた。

この事件は一方で生計の糧となりうる鉄穴流しが、他方で村々の生活を脅すという相反する側面をもつことを示す一つの事例であった。八岐大蛇の幻影が、この時代にもうごめいていたような印象を与える。

鉄穴流しによる砂鉄採集およびたたら製鉄は、長くこの地方の主産業であった。しかし、明治維新後の洋鉄輸入の急増などの影響を受けて衰微し、現在は各所に鉄穴流しやたたら場の遺構を留めるにすぎない。しかし、そのような中で船通山北西麓の横田町大呂おおろでは、昭和五二年(一九七七)に日本美術刀剣保存協会によって復活・設置された「日刀保にっとうほたたら」が年四回の操業を行っている。

これはたたら製鉄の継承と技術者育成を目指したもので、鉄は美術刀剣用に使用される。素戔嗚尊の降臨した山は、今もたたらの里を見守りつづけている。

 

(A・K)

かつて鉄穴流しに利用された斐伊川、日野川は、船通山の一帯を水源とする


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初出:『月刊百科』1992年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである