現在の47都道府県を所属単位とする「北海道」「東北」「関東」「中部」「近畿」「中国」「四国」「九州・沖縄」の8地域区分は、明治36年(1903)の第1期国定地理教科書「小学地理」で採用された「北海道」「奥羽地方」「関東地方」「本州中部地方」「近畿地方」「中国地方」「四国地方」「九州地方(沖縄を含む)」の8地方区分(ほかに「台湾」)に淵源することを先回は記しました。
この8地域区分は、その後の学校教育を通じて徐々に浸透してゆくことになるのですが、当初はまだ馴染みが薄かったのではないかと思われます。
といいますのも、ちょうどこの頃(明治33-40年)に編まれた吉田東伍の「大日本地名辞書」の地域区分は「上方(畿内及近国)」「中国(山陰・山陽)」「南海(四国)」「西海(西国)」「北国」「東国」「阪東(坂東)」「奥羽」の8区分で(続編として「北海道・琉球・台湾」を扱う)、その構成単位も府県ではなく、律令国郡制の国(六十余州)を採用しています。
吉田は、当時の行政区画としての府県を全面的に否定しているわけではないのですが、歴史・文化・風土のまとまりという見地にたてば、必ずしも適っているとはいえないとし、一千年以上続いた「国」を構成単位にします。ただし、その国の境域もまた吉田独自の考え方を反映していました。
たとえば、吉田の考える「上方(畿内及近国)」地域は山城国(京都府)・大和国(奈良県)・河内国(大阪府)・和泉国(大阪府)・摂津国(大阪府・兵庫県)・近江国(滋賀県)・伊賀国(三重県)・伊勢国(三重県)・志摩国(三重県)・紀伊国(和歌山県)・淡路国(兵庫県)で構成されているのですが、明治初期には紀伊国に属していた
吉田東伍は南牟婁郡(三重県)と東牟婁郡(和歌山県)を一体と考えた
こうした小異は随所にみられるのですが、「大日本地名辞書」の「上方」「中国」「北国」「東国」を除いた「南海(四国)」「西海(西国)」「阪東(坂東)」「奥羽」の地域区分は、現在の「四国」「九州」「関東」「東北」のそれとほぼ合致します。
「大日本地名辞書」の「上方」は、現在の「近畿」に相当する地域区分ですが、三重県全域は上方地域に含まれる一方で、丹波国(現在の京都府中北部、兵庫県中東部)、丹後国(同京都府北西部)、但馬国(同兵庫県北部)、播磨国(同兵庫県西南部)は上方から抜け落ちて「中国」に配されています。
ここまでの検討をまとめてみますと、近畿(あるいは上方)の境域は必ずしも一定ではないので、これに接する中部(東方)、中国(西方)の境域も連動して異同が生じている、といえるのではないでしょうか。一方で、近畿と接していない東北・関東・四国・九州の境域に、ほとんど異同はみられません。
先回……「日本国語大辞典」が明治2年(1869)刊の「布令必用新撰字引」(松田成己)にみえる「近畿 ミヤコノキンジョ」を「近畿」という言葉の早期の使用例としてあげているが、もう少し早く流布していたようだ……と述べました。じつは、同じく先回触れました金坂教授の講演で、ポルトガル人のイエズス会士ジョアン・ロドリーゲスが1620年頃に記した「日本教会史」(岩波書店「大航海時代叢書」所収)によると、「近畿」という言葉は、王宮の地、あるいは政庁のある地方区という意味で、その指し示す境域は「五畿内」と同じものとして用いられていた、と言及しています。
ここで、「大日本地名辞書」が採用する「上方=畿内及近国」や「近畿=五畿内」「近畿=ミヤコノキンジョ」という規定を勝手に拡大解釈、「近畿=五畿内ノキンジョ」まで広げてみました。そうしますと、山城・大和・摂津・河内・和泉の五機内に接しているのは、近江・伊賀・伊勢・紀伊・播磨・丹波・若狭の諸国、および海を挟んで淡路国といった按配になります。
この計13か国の版図は、現在の近畿=2府5県から三重県東端部(旧志摩国)、兵庫県北部(旧但馬国)、京都府北西部(旧丹後国)を除き、福井県南西部(旧若狭国)を加えた境域ですので、県をその単位要素と限定すれば「ほぼ合致する」と強弁もできるのですが、今度は福井県が入り込んできました……。
次回はこのシリーズの最終回となります。
(この稿続く)