河川の中・上流域にあって、四周を山に取り囲まれた盆地状の地に〈オグニ〉という地名が付されていることはよくあります。漢字では小国の字を宛てることが多く、尾国・雄国などと記す例もみえます。JK版「日本歴史地名大系」の見出し検索(部分一致)で《小国》と入力すると40件がヒット、ほかに尾国・雄国で各1件ずつヒットします。
東日本、とりわけ山形県(13件)や新潟県(7件)に多くみられますが、西日本の広島県(4件)や熊本県(3件)にもあります。次表に全国の主な〈小国〉地名を流域河川名と合わせてまとめてみました。山形県内には小国地名が多いので、地元では、(2)の
所在地 | 関係河川名 | 注 記 | |
1 | 岩手県 | 小国川(閉伊川支流)の上流域 | |
2 | 山形県最上郡最上町 | 小国川(最上川支流)の流域 | 最上小国。古く一帯は小国郷とよばれていた |
3 | 山形県鶴岡市の小国 | 小国川の上流域 | 庄内小国 |
4 | 山形県 | 置賜小国 | |
5 | 新潟県 | 旧 | |
6 | 広島県 | ||
7 | 広島県 | 古代の備後国 | |
8 | 熊本県 |
〈オグニ(ヲグニ)〉の地名が広く分布することは柳田国男も早くから指摘しています。『地名の研究』(昭和11年刊)において柳田は、出羽越後の〈ヲグニ(小国)〉の特徴について「分内がやや広くして生活品は塩さえも土地に産することがあり、武陵桃源の隠れ里のごとく、彼らが自得自讃の根拠あることを感ぜしめる」と記し、地形の特質に起因するものでしょうが、〈小国〉に共通する特徴として、経済的・文化的にまとまった一つの地域世界を形成している点をあげています。
また同書で柳田は〈ヲグニ〉地域の開発時期について、示唆に富んだ見解を述べています。柳田によれば、開発可能な原野のうち一般に平坦地をハラ(原)、山麓の緩傾斜地、ふつう裾野といわれる地形はノ(野)またはヌとよんだといいます。この野のうち古代の一郡にも相当する広大なものは
つまり、傾斜地に開けた小平地(小野)のうち、より上流にある(周囲から独立・隔絶した)地を
当然、開発時期は小野⇒河内(川内、甲子)⇒小国の順になります。10世紀に成立した『和名抄』(倭名類聚抄)は、全国の郡名・郷名を記載していますが、小野・河内といった郡名・郷名が多出するのに対して、〈小国〉は備後国御調郡の小国郷(表の(7))一つのみですので、他の小国の開発時期は11世紀以降ということになるのでしょうか。
繰り返しとなりますが、柳田は〈ヲグニ〉の特徴として「生活品は塩さえも土地に産することがあり、武陵桃源の隠れ里のごとく、彼らが自得自讃の根拠あることを感ぜしめる」と記しました。たしかに山形県西置賜郡小国町(置賜小国)の
しかし、各小国地方の歴史をつぶさに眺めれば、〈オグニ〉は必ずしも桃源郷であったとはいえないようです。山形県最上郡最上町一帯(最上小国)は馬産の伝統があって小国駒の名で知られていましたが、これは夏季にヤマセとよぶ東風が吹き込んで冷害となりやすく、稲作の適地ではなかったことによります。また置賜小国地方は山形県下でも一、二を争う豪雪地帯であり、耕地はおおむね狭小、地味も悪く、近世の村落規模でいえば、数戸から十数戸で構成される小村が大半を占めていました。小国とよばれた地域の生産性は概して低かったといえるでしょう。
それもそのはずで、川下より小野⇒河内と順次開かれていった残余の地、最後に開拓された土地が〈小国〉なのですから、周囲と比べて地味が劣っていることも合点がゆきます。一方で、近世以前、多くの小国地域を当時の主要街道が走り抜けていました。これは〈小国〉が川の最上流域=一つのまとまった地域単位の最奥部(周縁部・境界部)に位置したことによります。交通網の多くが川沿いに発達していた近世以前には、周囲の山を一つ越えると、別の水系=別の地域単位に出ることになる〈小国〉は交通の要衝となったのです。
JK版「デジタル大辞泉」で、〈くに〉を調べると、「国または邦」の用字で、「国家。また、その占めている地域。国土。」「地方。地域。」「古代から近世までの行政区画の一。大化の改新によって定められ、明治維新まで続いた。」「 生まれ育った土地。郷里。故郷。」「(主に、
辞書類によれば、〈オグニ〉の本義は「小さな地域」ということになるのでしょう。しかし、名付けた開発者=「下であふれた」移住者たちは、たとえ生産性は低くとも、周囲から独立性を保つその土地を、わが愛する地・誇るべき郷土という意味合いも含め、〈オグニ〉と名付け、名付けられた彼の地は、彼ら「下であふれた」移住者たちにとって、まさに「武陵桃源」の地であったのかもしれません。