立春を過ぎ、暦のうえでは春となりましたが、まだまだ寒い日が続いています。しかし、日も一日毎に長くなり、チラホラと梅の便りも聞こえてきました。水戸市の偕楽園や奈良市の月ヶ瀬梅渓など、全国に知られた梅の名所はもとよりのこと、太宰府天満宮をはじめとして、各地の天満宮・天神社でも梅の香が立ちはじめたかもしれません。
ジャパンナレッジ「日本大百科全書(ニッポニカ)」には【ウメ】の「文化史」について次のような記述があります。
中国では6世紀の『斉民要術(せいみんようじゅつ)』に、すでに梅干しや梅酢の作り方などの加工技術や栽培法が記されている。日本に渡来したのは奈良時代以前で、最初の栽培地を長崎県平戸の梅崎とする口伝がある。日本では『懐風藻(かいふうそう)』(751)に初めてウメの名が取り上げられたが、『万葉集』では118首に歌われ、これはサクラの約3倍にあたり、ハギに次いで多い。当時から観梅が行われ、大宰帥(だざいのそち)であった大伴旅人(おおとものたびと)は客人を集めて宴を催したが、そのときの梅花の歌32首が『万葉集』(巻5)に載せられている。『万葉集』には白花だけが詠まれているが、9世紀の『続日本後紀(しょくにほんこうき)』(869)になると紅梅が顔を出す。菅原道真(すがわらのみちざね)は901年(延喜1)に九州の大宰府(だざいふ)へ流されるが、そのおり庭の梅に惜別の歌を詠んで、のちに「飛梅(とびうめ)」の伝説を生んだ。その後、ウメは天満宮や天神様のシンボルとされ、現在に続く。(後略)
古代の梅は花の王座に君臨していました。しかし、中世になるとその地位は桜に取って代わられます。そのあたりの経緯については、平凡社「世界大百科事典」の【ウメ】の項目に、「やがて,花の王座としての地位はサクラに譲渡される日がくる。中世になると,五山文学僧のようにウメの詩をやたらに作った例外事例は別にして,ウメはサクラに押されて劣勢を挽回(ばんかい)できなくなった」との記述がみえます。
ちなみに、ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、「梅」の1字を入力して見出し検索(部分一致)をかけますと、ヒット件数は223件。「桜」1字の場合は303件ですから、中世以後の傾向が反映された数値かもしれません。
ここからは、「梅」の付く地名の周辺をめぐりたいと思うのですが、「梅」1字のヒット件数は223件。検討を加えるには少し多過ぎるような気がします。そこで、まずは「梅林」の2字で検索し直し、探梅の途に就くこととしましょう。
「梅林」の2字検索(見出し・部分一致)の結果は15件。そのなかで、梅の名所としての「梅林」は以下の5件でした。
○
○
○
○
○
城陽市の青谷梅林は約1万本の梅の木があり、京都府では最大級の梅林といわれています。
いずれの梅林も江戸時代以前にさかのぼることができ、地域を代表するような由緒ある梅林です。ほかでは、滋賀県
しかし、「梅林」でもっとも多くヒットしたのは寺名としての「梅林」で、以下の7件にのぼりました。
○青森県弘前市の梅林寺(曹洞宗)
○秋田県山本郡
○静岡県
○京都府
○大阪府茨木市の梅林寺(浄土宗)
○福岡県久留米市の梅林寺(臨済宗妙心寺派)
○長崎県
ここで興味深いことは、大阪府茨木市の梅林寺が浄土宗に属していることを除くと、他の6か寺(院)はいずれも臨済宗妙心寺派か曹洞宗に属する禅宗寺院であったことです。
筑後川に臨む久留米市の臨済宗妙心寺派梅林寺。その外苑は梅の名所としても名高い。
禅林で梅が重んじられていたことについては、先に引いた「世界大百科事典」に「五山文学僧のようにウメの詩をやたらに作った」という記述がありましたから、臨済五山を筆頭とする禅宗寺院では「梅」を愛でる風習が強く、そのために寺号に「梅林」を用いた寺院も多かったのでは? などと筆者は推測した次第です。
いま少し、「梅」の付く地名の周辺をめぐってみたいと思います。
(この稿続く)