これまで、このコーナー(日本列島「地名」をゆく!)では幾度か政令指定都市の区名について取り上げました。そのなかで、安直に名付けられた区名、個性のない区名の代表として中央区(あるいは中区)、東区、西区、南区、北区をあげ、「政令指定都市の区名5点セット」と命名して、新たに誕生する政令指定都市では、でき得るかぎり使用を避けてもらいたいものだ……と、筆者のささやかな希望を述べさせていただきました。
この区名5点セットのなかから、中央区(あるいは中区)を取り上げますと、現在、20ある政令指定都市に東京特別区(23区)を加えた21都市のなかで、中央区を使用しているのは札幌、さいたま、千葉、東京、相模原、新潟、大阪、神戸、福岡、熊本の10都市、同じく中区は横浜、浜松、名古屋、堺、岡山、広島の6都市にのぼり、合わせて16都市ということになります。
まさに金太郎飴のような区名といえるでしょうか。ただ、この中央区(あるいは中区)は、いずれも各都市の中央部に位置していますから、偽りのない地名であり、「名は体を表している地名」ともいえます。
ところで、古代の律令制下では、行政地名は国‐郡‐郷という単位で編成されていました。「国」は「陸奥国」「武蔵国」「尾張国」「薩摩国」の国であり、現在でいえば県(あるいは政令指定都市)に相当するといえるでしょう。その次の「郡」は、平成の大合併でその数は極端に少なくなったとはいえ、現在も行政区画として存続しており、現在の郡区市町村にあたる単位と考えられます。そして「郷」はその下の地名、現在でいえば大字・町名に相当する地名、といえるでしょうか。
では、古代律令制下で、現在の区名に相当する郡名に、今までさんざん槍玉にあげてきた「中央区」「中区」に相当する「中郡」という郡名は使用されていないのか? と問われれば、答えは「いいえ」で、じつは「中郡」という郡名は多くの国々で用いられていました。
ただし、奈良時代のはじめに、国・郡・郷などの行政地名を、二字・好字で表すようにする施策がとられたために、「中」の1字で表わすのではなく「那珂」あるいは「那賀」の表記が充てられています。
なお、現在も郡名として残る神奈川県の
かつての六十余州(66か国と2島)にどのくらい中(那珂・那賀)郡は存在したのでしょうか。元和古活字本『倭名類聚鈔』の郡郷部に見える郡名で確認しますと、「那珂郡」は常陸、武蔵、讃岐、筑前、日向の5か国、「那賀郡」は伊豆、紀伊、石見、阿波の4か国にあり、合わせて9か国で「中郡」が使用されていたことがわかります。
政令指定都市の中央区・中区ほどの頻度ではありませんが、中郡(那珂郡・那賀郡)は古代における金太郎飴地名の一つ……といえるのではないでしょうか。
古代の「中郡」と政令指定都市の「中央区」「中区」に=金太郎飴地名=という共通項があるのならば、「中郡」もまた、「中央区」「中区」と同様に、所属する国の中央部に位置しているのではないか? という設問も当然のことながら出てくると思われます。
この問題については、JK版「日本歴史地名大系」の「地図・資料」から「旧郡界図」(旧郡域・現市町村域対照図)を開いて確認してみました。
なお「旧郡界図」は、近代以降の郡域をもとに作成されていますので、古代の郡域とは必ずしも合致しませんが、所属国内における郡の位置関係でいえば、おおむね古代の位置関係を反映しているといえるでしょう。
島根県の「旧郡界図」から。那賀郡は、現在の島根県域の南西部を占める旧石見国の中央部に位置していたことがわかります。なお、島根県の北東部は旧出雲国。 |
その結果、古代の中郡(那珂郡・那賀郡)のなかで、各所属国の中心部に位置しているのは、常陸国の那珂郡と石見国の那賀郡ぐらいしかない、ということが判明しました。武蔵国の那珂郡が国の北端部、上野国との国境近くに位置しているのは極端だとしても、あとの7か国(武蔵国那珂郡を含む)の那珂郡・那賀郡は国の中心部から、一定程度はずれたところに位置していたことがわかりました。
現在の政令指定都市の中央区・中区とは違い、古代の「中郡」は、「真ん中」に由来する地名とは限らない、いいかえれば「名は体を表していない地名」といえるでしょう。そのあたりについては次回に……。
(この稿続く)
埼玉県の「旧郡界図」から。旧武蔵国は現在の埼玉県だけでなく、南側に位置する東京都のほぼ全域、さらに神奈川県の北東端部にまで及んでいました。那珂郡はこの広大な武蔵国の北の端に位置していました。 |