日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
地名の由来、歴史、風土に至るまで、JK版「日本歴史地名大系」を駆使して解説します。
さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第142回 県内の分け方(1)

2018年05月11日

各都道府県内における地域間の対抗意識について、長野県の場合を例に挙げ、かつて取り上げたことがあります(第58回~60回「信濃の国」)。今回は、各都道府県内の地域区分の方法や呼称について考察したいと思います。

たとえば東京都の場合は、大きく分ければ区部(23区域)、多摩地方、島嶼部の三つに区分するのが一般的です。これは単純に西部(多摩地方)と東部(23区域)と伊豆諸島や小笠原諸島という島々に分ける地理的な区分と考えることもできます。しかし、一方では、戦前の東京市に相当する区部、東京府下に相当する三多摩地域、島庁・支庁の管轄下であった島嶼部という歴史的な区分けを踏襲した、ともいえるでしょう。

このように歴史的・文化的・地理的なつながりで地域分けをする代表的な方法は、石川県を加賀と能登、愛知県を尾張と三河、広島県を安芸と備後と区分けするような、旧国名(場合によっては旧郡)のまとまりで区分するやり方で、県外の人々にとっても理解しやすく、もっともポピュラーな区分法といえるでしょう。

青森県では県西部を津軽つがる地方、東部を南部なんぶ地方に区分するのが一般的です。これは津軽氏の本藩である弘前藩と支藩である黒石藩の領地だった地域を津軽地方、南部氏の本藩である盛岡藩と支藩である八戸藩の領地だった地域を南部地方とする分け方で、これも歴史的・文化的なまとまりを重視した区分といえます。

歴史的・文化的なつながりよりも地理的なつながりを重視する分け方では、気象庁が天気予報を発表する際の地区分け=一次細分区域といいます=が、よく使われる地域区分法です。警報や注意報を出す場合は、さらに狭い単位=二次細分区域といいます=の地域分けで発表されます。

この区分は、天気予報で日々聞かされている県内の人々にとってはとても馴染み深い呼称なのですが、県外の人々にとっては、耳慣れない言い方といえるかもしれません。

たとえば、福島県では県内を東から西へ向かって浜通はまどおり、中通なかどおり、会津あいづと縦割りで3区分する区分けが浸透しており、気象庁の一次細分区域もこの3区分を採用しています。地理的に大雑把にとらえると、阿武隈あぶくま高地の東側で、太平洋に面するのが浜通り、阿武隈高地の西側と奥羽山脈の東側にあたり、間を北流する阿武隈川の流域が中通り、阿賀野川(阿賀川)の流域が会津で、気象的にも浜通り地方は太平洋側の気候、会津地方は日本海側の気候で、中通り地方はその中間といった按配です。

会津地方は江戸時代には会津藩領(あるいは幕府領で同藩の預り地)であった地域で、歴史的・文化的なまとまりも保持していて、県外の人たちにも広く知られた呼称です。

しかし、江戸時代に幕府領や各藩領に分割されていた浜通り地方や中通り地方を一まとめにする歴史的な呼称はなかったと思われ、明治維新後に福島県が誕生してから、交通路=浜通り地方は浜街道(現在の国道6号)・常磐線、中通り地方は奥州街道(同4号)・東北本線=を勘案して名付けられた区分と考えられます。県外の人々にとっては、あまり聞きなれない呼称ではないでしょうか。

しかし、この区分けは気候的な区分とも合致していたことから、県民に受け容れられ、やがて定着します。現在の福島県政でも、浜通り、中通り、会津の3地域間でバランスのとれた発展が、求められる重要な施策の一つとなっています。

福井県の区分けでは、旧国に由来する越前(北東部)と若狭(南西部)の地域分けがあり、県外の人々にもわかり易い区分といえます。実際に福井県の県民性について語るとき、この越前・若狭の分け方で話を進めることも多いでしょう。

しかし、気象庁の一次細分区域では、その下を北陸本線の北陸トンネルが通過する木ノ芽峠を境として、嶺北れいほく(北東部)・嶺南れいなん(南西部)に分ける2区分を採用しています。嶺北は旧越前国の版図から敦賀市(旧越前国敦賀郡)を除いた地域にあたり、嶺南は旧若狭国に敦賀市を加えた地域に相当します。

嶺北と嶺南を分かつ木ノ芽峠

福井県外の人々にとっては聞き慣れない地域呼称ですが、県内では広く浸透していて、現在では気象予報ばかりではなく、行政を含めたさまざまな区分けで嶺北と嶺南の2分割法が採用されています。

嶺北・嶺南の境となる木ノ芽峠の標高は約600メートル、一方で、越前・若狭の国境に位置する関峠は標高約100メートル。地理的区分でいえば、木ノ芽峠で分割する嶺北・嶺南の区分法が自然で、歴史的にも敦賀地域と若狭国との間では、ヒトとモノの交流が古くから活発でした。

ところで、福井県の事情に詳しい知人によりますと、県内の歴史・文化事業などでは、越前と若狭で対立することもしばしば起こるそうです。こういったときに、旧越前であり、かつ嶺南に属する敦賀の人々は、必ずしも越前に与するわけではなく、かといって若狭べったりでもなく、どちらかといえば中立的な立場を取ることが多いそうです。

気象庁の一次細分区域は地理的な区分を第一義としている、と先に記しましたが、歴史的・文化的なまとまりを軽視しているわけではないようです。たとえば、富山県の一次細分区域は東部と西部の2区分なのですが、面積的には東部のほうが大きく、西部の約2倍といった按配です。

旧越中国単独で成り立つ富山県では、富山平野に突き出したかたちの呉羽くれは丘陵を境として、東側を呉東ごとう、西側を呉西ごせいとよぶ地域区分があり、広く県民に浸透しています。おおよそでいえば、呉東は江戸時代に富山藩領であった地域で、呉西は富山藩の本藩である加賀金沢藩領であった地域に相当します。

こうした歴史的な背景を含めて、呉東と呉西では文化や風土に違いがあるといわれていて、呉東の人は呉東自慢(呉西の批判)、呉西の人は呉西自慢(呉東の批判)をよくするそうです。

地図の真ん中、富山平野に突き出た呉羽丘陵。先端部にはゴルフ場が多い。

気象庁の一次細分区域である東部と西部は、じつは呉東と呉西の区分に対応しており、そのために、東部が西部の2倍ほどの広さになりました。気象庁の一次細分区域は歴史的・文化的なまとまりにも留意していることがわかります。

同様のことは島根県でも確認できます。旧出雲国・石見国・隠岐国の3国からなる島根県の一般的な区分は出雲・石見・隠岐の3区分ですが、気象庁の一次細分区域では東部、西部、隠岐の3区分。しかし、この区分では東部が西部の半分ほどの広さしかありません。じつは、一次細分区域の東部はほぼ旧出雲国に対応し、西部は同じく旧石見国に対応していて、この広狭の差が生じました。気象庁の一次細分区域はあくまでも自然地理的な区分が優先されますが、旧国の国分けなど、歴史・文化にも充分に配慮している証左といえるかもしれません。

県内区分の呼称について、もう少し考察を続けたいと思います。

(この稿続く)