日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第92回 網代、安代、足代

2015年03月20日

前回は、「狩場」「狩倉」といった鳥獣の狩猟場に関連する地名について言及しました。今回は魚の漁場である「網代」の付く地名について考察します。

網代には漁場のほかにもいくつかの意味があり、ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」は【網代】の語釈として以下の9つをあげています(用例文は省略)。

(1)漁網を打つべき場所。漁場。建場。
(2)川の瀬に設ける魚とりの設備。数百の杙(くい)を網を引く形に打ち並べ、その杙に経緯を入れ、その終端に筌(うけ)などを備えた簗(やな)のようなもの。冬、京都の宇治川で、氷魚(ひお)を捕えるのに用いたので、古来有名。あむしろ。あんしろ。《季・冬》
(3)((1)から転じて)魚類が多く集まって、漁に好適の場所。
(4)官名。御厨子所(みずしどころ)の膳部に属し、天皇の食事用などの魚類をとる者。
(5)檜皮(ひはだ)、竹、葦(あし)などを薄く細く削り、交差させながら編んだもの。垣、屏風、天井、車、輿(こし)、団扇(うちわ)、笠などに用いる。
(6)(5)にかたどった模様。
(7)近世、漁業の漁獲高分配法の一つ。漁網に対して配当される収益。
(8)「あじろぐるま(網代車)」の略。
(9)「あじろかご(網代駕籠)」の略。

(2)に「冬、京都の宇治川で、氷魚を捕えるのに用いたので、古来有名」とありますが、「小倉百人一首」に選ばれる権中納言定頼(藤原定頼)の

朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
 あらはれ渡る 瀬々のあじろ木

の歌はよく知られていますね。それはさておき、少し整理しますと、
主に海の漁場に関連する……(1)(3)(7)
川の漁場に関連する……(2)(4)
漁場に仕掛けるものに関連する……(5)(6)(8)(9)
と分けられるかと思います。(4)は、海・川とも判断しかねますが、後述の理由で川としておきます。

さて、ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択して読みの「あじろ」を入力、見出し(部分一致)検索をかけますと20件がヒットします。漢字表記では「網代」のほかに「安代」「足代」もあります。

この20件のうち、海に面しているのは、

小網代村こあじろむら】=神奈川県/三浦市
網代浜村あじろはまむら】=新潟県/北蒲原きたかんばら郡/聖籠せいろう
網代村あじろむら】【網代郷あじろごう】=静岡県/熱海市
網代浦あじろうら】=和歌山県/日高ひだか郡/由良ゆら
網代村あじろむら】=鳥取県/岩美いわみ郡/岩美町
有網代浦あらあじろうら】=愛媛県/西宇和にしうわ郡/三瓶みかめ町(現西予市)
馬目うまめ 網代浦あじろうら】=愛媛県/八幡浜市
網代村あじろむら】=佐賀県/杵島きしま郡/白石しろいし
網代あじろ】【網代村】=長崎県上県かみあがた上対馬かみつしま町(現対馬市)
網代浦あじろうら】=大分県/津久見市

の12項目です。「網代浦」「網代浜」といった、いかにも漁村らしい名称も多くみえます。いずれも「漁網を打つべき場所」であり、「漁に好適の場所」だったのでしょう。なお、佐賀県白石町の【網代村】は現在、田圃のど真ん中に位置しています。しかし、「この村は奈良時代頃までは有明海の海岸にあり、当時の有明海の海岸線はひで村から網代村を経て廻里江めぐりえ川の線であったと推定されている」と記されていますから、やはり「海の網代」といえるでしょう。

三瓶湾に面した海の網代、「有網代村」

次に、川に面していたのは

網代瀬村あじろせむら】=山形県/西置賜にしおきたま郡/小国おぐに
網代村あじろむら】=埼玉県/川越市
網代村あじろむら】=東京都/あきる野市/旧五日市町いつかいちまち地区
谷上浜たなかみはま田上網代たなかみあじろ】=滋賀県/大津市/南部地域

の4項目。これらの地域では、かつて川漁を生業としていたのかもしれません。

多摩川の支流、秋川の右岸に位置する川の網代、あきる野市「網代村」

「川の網代」4項目のうち、【谷上浜・田上網代】は古代の地名で、次のような記述があります。

栗太くりた郡内にあった谷上川の漁猟場。「日本書紀」雄略天皇一一年五月一日条には「栗太郡言さく、白き鸕鷀、谷上浜に居り、とまうす、因りて詔して川瀬舎人を置かしむ」とあり、谷上浜に白い鵜がいたので、川瀬舎人を置いて管理させたことが知られる。この谷上浜は田上川(大戸川)が瀬田せた川に合流する現大津市南郷なんごう黒津くろづ付近とみられるが、川瀬舎人はのちの田上網代の前身とみる見解が有力である。田上網代は元慶七年(八八三)一〇月二六日の太政官符(類聚三代格)によれば、近江国には田上網代をはじめ筑摩つくま御厨・勢多せた御厨・和邇わに御厨と合せて一六四人、別に皇太后宮職網代に四〇人の所役徭人があり、供御として氷魚を貢上していた。また「延喜式」内膳司に「山城国・近江国氷魚網代各一処」とあり、九月から一二月までの間に三〇日貢進することが規定されている。網代とは川瀬で漁猟する施設で、竹や木を編んで組立てたもので、のちその領地の呼称に転訛したとみられ、川瀬舎人はこうした諸施設や鵜の管理に当たっていたのではなかろうか。

宇治川の上流部にあたる瀬田川と大戸だいど川の合流点に設けられた田上網代では、かつて氷魚がたくさん採れたようです。先に述べた「(4)官名。御厨子所の膳部に属し、天皇の食事用などの魚類をとる者」を川の網代に分類したのは、【谷上浜・田上網代】項目の「供御として氷魚を貢上していた」という記述に重なり合うと考えたからでした。

「あじろ」でヒットした20件のうち残るのは、海にも川にも面していない「あじろ」で、次の4件です。

安代村あじろむら】=愛知県/東加茂ひがしかも郡/足助あすけ町(現豊田市)
足代庄あじろのしょう】=大阪府/東大阪市/旧布施市地区
東足代村ひがしあじろむら】=大阪府/東大阪市/旧布施市地区
西足代村にしあじろむら】=大阪府/大阪市/生野いくの

4件のうち、大阪府の東西の足代村は中世の足代庄の地に誕生した近世村落と考えられます。その西足代村の項目に「当郡(河内国渋川しぶかわ郡のこと)は網代とよばれる菅笠の産地で、当村および東足代村はその中心地であり、村名はこれに由来するともいう」とみえますから、語釈でいえば(5)の「檜皮、竹、葦などを薄く細く削り、交差させながら編んだもの。垣、屏風、天井、車、輿、団扇、笠などに用いる」に関連した地名といえます。

ここで残ったのは足助町の【安代村】となります。同村の立地は「美濃街道が中央を通り、集落は小起伏面上の山麓に点在。安代城跡が美濃街道沿いにある」と記され、海にも川にも面していません。かてて加えて「漁場に仕掛けるもの」と関連するような記述もみられません。「あじろ」の読みでヒットした20 項目のうち、19項目の地名は「日本国語大辞典」の【網代】の語釈にかなった地名由来が想定できましたが、足助町の【安代村】は例外となりました。あるいは、漢字表記「網代」に通じる「あじろ」ではない、別の由来が隠されているのかもしれません。

(この稿終わり)