先回は、若槻紫蘭の「東京年中行事」(ジャパンナレッジ「東洋文庫」で閲覧できます)や「風俗画報」208号(明治33年4月刊。「JKBooks」で閲覧できます)の記事などで、明治時代の東京の桜名所を一覧しました。
今回は、はじめに齋藤
月岑は父齋藤幸孝(
それによりますと、立春より54、5日目頃に開花する彼岸桜の名所は
次いで、立春より60日目頃に開花する単弁桜の名所として、上野山中のほかに、谷中七面宮(荒川区延命院)、駒込吉祥寺、小石川白山社地
江戸で一番の花見の名所、上野山中。長期に亘って花が楽しめた
これより少し遅く、立春より65日目頃に開花する単弁桜の名所としては上野山中のほかに、飛鳥山、王子
立春より70日目頃に開花する重弁桜の名所としては、上野山中のほかに、谷中日暮里の諏訪社一帯(荒川区・台東区)、王子権現社辺の滝野川(北区)、根津権現社(文京区)、谷中天王寺、同瑞林(瑞輪)寺(以上、台東区)、品川御殿山、鮫洲西光寺、同光福寺、同浄蓮寺、同来福寺(以上、品川区)、大塚護国寺(文京区)、渋谷
同じく立春より70日目頃に開花する遅桜の名所としては、上野山中をあげ、浅草寺(台東区)の千本桜や深川八幡宮(江東区)の
こうしてみてきますと、寛永寺境内を中心とした上野山中には、さまざまな種類の桜が植えられていたこと、江戸(近郊を含む)の桜名所は上野山中や、小金井桜、墨堤、飛鳥山など、徳川吉宗が力を入れたとされる遊覧地を除くと、長く続く桜並木や広大な桜林といった類は少なく、寺社境内の桜木(代を経て現在まで続いているものもかなりあります)を愛でることが多かったこと、また、江戸の人々はさまざまな品種の桜を長期(2週間以上)に亘って楽しんでいたことなどが伺えます。
現在のように、ソメイヨシノを中心とする桜並木が広く全国に行き渡ったのは明治後期以降(とくに第二次世界大戦後)のこと。単一の品種があまりに多くなりすぎたことに対する懸念については、大分前に当欄でも触れました(2011年4月の「花の名所は桜川」)。
生長が早く、大きな花を咲かせ、手入れも比較的容易なソメイヨシノが急速に広まったのは必然ともいえるのですが、近年は、ソメイヨシノ以外の品種を植えたり、複数の品種を育成したりと、改善の動きも活発になっているようです。
ところで、最近の東京における桜の人気スポットといえば、中目黒駅を中心とした目黒川沿いが群を抜いています。カフェやイタリアンの店、アクセサリーやファッションを扱う小洒落た店などが軒を並べ、若者の注目を集めています。
筆者も十数年前に訪れたことがあるのですが、混雑していて、ゆっくり桜見物ができなかったため、翌年、再度挑戦することにしました。しかし、翌年はあまりの混雑振りに恐れをなし、一つ筋違いの道から川沿いを行く人並みを呆然と眺めるだけで終わり、すごすごと帰途についた苦い経験があります。
花見スポットとして、近年、人気急上昇中の目黒川
東京の山の手台地を開析して流れる川といえば、石神井川、神田川、古川(渋谷川)、目黒川があげられますが、川沿いの開発が著しく進んでしまった古川を除くと、その川沿いは、いずれも桜の名所として知られています。
神田川の桜については、明治時代にすでに名所になっていたことは先回も触れましたが、昭和50年代に文京区内では江戸川公園の整備、豊島区と新宿区では協力して区境を流れる神田川沿いに桜を植栽する事業などが進められました。石神井川沿いの桜は昭和9年(1934年)に前年の皇太子(今上天皇)誕生を祝って在郷軍人会や青年団によって整備が進められたそうです。
目黒川も昭和前期には桜並木がみられたのですが、その後、川沿いに工場が進出、戦後は急激な都市化の進展などによって川の水質が悪化、昭和30~40年代には都内でも指折りの汚染度の高い河川になりました。
昭和56年(1981年)の水害は目黒川の上流域に甚大な被害をもたらし、その緊急対策事業で桜並木はいったん姿を消しました。その後、本格的な河川改修工事に着手、あわせて川沿いに新たに桜が植栽され、現在の桜並木が形成されたといいます。
ゆっくりと花を愛でるには最適な石神井川
目黒川の桜並木の人気が急上昇する一方で、石神井川や神田川の注目度は相対的に低くなっています。そのためか、(筆者の実感としては)石神井川や神田川の桜並木の美しさは以前と変わらないのに、人出は年々減少しているような気がします。しかし、ゆっくりと桜花を楽しむには、石神井川や神田川の川沿いは絶好のコースになったともいえるでしょう。
(この稿終わり)