日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第15回 江戸幕府薬園の名残―薬園坂(やくえんざか)

2008年05月02日

麻布本村町(あざぶほんむらちよう)は、江戸時代に、城下町江戸の市街地拡大にともなって武蔵国豊島(としま)郡麻布村のうちに誕生した町場の一つです。町域は麻布台地の中心南部から南の新堀(しんぼり)川((ふる)川ともいい、上流は渋谷(しぶや)川)の左岸低地傾斜面にかけて広がっており、現在の東京都(みなと)区元麻布1-2丁目、南麻布1-3丁目の一帯にあたります。同町の立地についてJK版『日本歴史地名大系』には、

「東は陸奥仙台藩松平(伊達)家下屋敷・高家織田邸・大和高取藩植村家下屋敷・信濃飯田藩堀家下屋敷、西は陸奥盛岡藩南部家下屋敷・同八戸藩南部家下屋敷・火消役小出邸、南は常陸土浦藩(大坂城代)土屋家下屋敷、北は交代寄合山崎邸・善福(ぜんぷく)寺境内・同寺門前西(にし)町。以上は、町内がおよそ二八もの不規則な区画に分れ、東西南北とも武家屋敷・寺院・百姓地などと錯雑しているので概略の記述であるが、本村すなわち麻布の地名発祥の街区が、不規則に武家地に浸食されながら展開したことをうかがわせる」

と記されていますが、町は北部の通称(うえ)ノ町(上野町とも)、西部の通称御殿新道(ごてんしんみち)(西ノ台とも) 、南部の通称(なか)町(新町とも)、通称仲南(なかみなみ)町、通称川南(かわみなみ)町(新堀端とも)、通称大南(おおみなみ)町などに大別できます。傾斜面を町域としていたため坂が多く、そのうち、新堀川方面に下る坂(南麻布3丁目)を薬園坂(御薬園坂とも)といいました。文政年間(1818-30)に成立した町方書上の麻布本村町の項には「坂四か所(中略)仲町南の方に一か所、但し、登り六十間余り、道巾四間、目黒通り里俗御薬園坂と申し伝え候。古来この辺りに御薬園これあり候。これにより右よう唱え候」とみえます。

四之橋から北上してイラン大使館の東側を通る道が薬園坂

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薬園坂の坂名は、坂の西側にあった江戸幕府の麻布御薬園(品川御薬園・目黒御薬園などともいいました)に由来しますが、岡崎清記著の『今昔 東京の坂』(1981年・日本交通公社出版事業局)は「御薬園坂(おやくえんざか)」の名称で取り上げ、別称として薬園坂・御役人(おやくにん)坂・役員(やくいん)坂・相模殿(さがみどの)坂をあげています。相模殿の坂名は、坂の東側にあった土屋相模守政直(常陸土浦藩主。のち駿河田中藩主となり、大坂城代・京都所司代などを経て老中となり、常陸土浦藩に復帰)の下屋敷にちなみ、御役人・役員の坂名について、岡崎はいずれも御薬園・薬園の転訛としています。

『今昔 東京の坂』は続けて「『江戸名所図会』長谷川雪旦画「七仏薬師 氷川明神」に、御薬園坂が描かれている。江戸の坂としては、坂幅が広いが、急坂であるために段坂となっている。この絵からすると、現在の坂幅はむかしと変っていないと思われるが、いまも勾配の急な、長い坂が美しい」と坂の様子を記します。『江戸名所図会』は薬園坂(左側)と、その東側にあった東福(とうふく)寺薬師堂(右側)を下部に配し、雲を挟んで上部には麻布村総鎮守の氷川明神を置く構図。

七仏薬師 氷川明神 第3巻 7冊 20丁
七仏薬師 氷川明神
出典:ジャパンナレッジ『江戸名所図会』より
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源経基の念持仏と伝える七仏薬師を安置する薬師堂は、東福寺が明治初年に現品川区安養(あんよう)院と合併して移転した折に、隣接する明称(みようしよう)寺に譲られました。明称寺は麻布御薬園創設の際、その護持のために建立された寺院と伝え、本堂の天井には薬園にちなむ薬草(本草)が描かれています。なお『江戸名所図会』は「ジャパンナレッジ」の〈ライブラリ〉コーナーで閲覧できます。(会員制サイト)

上田三平著・三浦三郎編『改訂増補 日本薬園史の研究』(1972年・渡辺書店)は日本の薬園の起源について「天武天皇の十四年に百済法蔵優婆塞益田金鐘を美濃国に遣わして白朮を煎せしめられた。地方に製薬法を伝えるためであろう。又天皇の御世に大和高市郡に薬師寺が建立され、寺域に薬園を設けたという説がある。しかしこれは正史に見えていない。古代寺院に花園の設置されたことは元興寺南園の例に徴して知られるが、これは恐らく奈良朝以後盛んになったもので、薬師寺の薬園も設置せられたものとすれば、西京に移建以後であろう」などと記します。古代の律令制では典薬寮(てんやくりよう)(「くすりのつかさ」とも)のうちに、薬園師(やくおんし)・薬園生が所属しており、薬園が設けられていたことがうかがえますが、薬園が広まったのは江戸時代で、幕府・諸藩が全国各地に設けて経営しました。

JK版『日本歴史地名大系』の見出し項目検索(部分一致)で「薬園」を入力すると14件がヒット、全文検索では165件がヒットします。ほとんどが江戸時代の幕府・諸藩の薬園に関連する項目ですが、なかには奈良県大和郡山(やまとこおりやま)市の「薬園庄(やくおんのしよう)」や「薬園八幡神社(やくおんはちまんじんじや)」のように、古代の奈良東大寺領庄園「薬園庄(やくおんのしよう)」に由来する項目もあります。また熊本県熊本市には熊本藩の御薬園に由来する「薬園町(やくえんちよう)」の町名があり、福島県会津若松市の「薬園前通(やくえんまえどおり)」は会津藩の御薬園にちなむ通名です。

先述の麻布御薬園は、貞享元年(1684)将軍(徳川綱吉)の御成御殿である白金御殿(しろかねごてん)の拡張のために廃され、白山御殿(はくさんごてん)小石川御殿(こいしかわごてん)ともいう。綱吉が将軍に就任する前、上野館林藩主時代の別邸。現東京都文京区白山3-4丁目)の北隅に移されました。これが小石川御薬園で、現在の東京大学大学院理学系研究科附属小石川植物園(文京区白山3丁目)の前身です。

小石川御薬園跡

小石川御薬園跡

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ところで、現在小石川植物園の南東側を通る坂道は御殿坂(ごてんざか)とよばれています。もちろん、白山御殿に由来する坂名です。麻布御薬園は、のちに綱吉の御殿である白金御殿となりましたが、その脇を通る坂の名は、御殿坂ではなく、それ以前の麻布御薬園に由来する薬園坂。綱吉の旧邸白山御殿は、のちに小石川御薬園となって明治維新を迎えますが、その脇を通る坂の名は、薬園坂ではなく、それ以前の白山御殿に由来する御殿坂。地名の名付けられ方、またその残り方は一筋縄ではいかないようです。