旅行代理店の企画ツアーのなかで、四国八十八ヵ所や西国三十三所観音霊場をはじめとする巡礼ツアーは根強い人気があるといいます。国内はもちろんのこと、近年はヨーロッパのキリスト教の聖地を訪れるツアーの人気も高まっています。「巡礼」について、ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」は【巡礼・順礼】の項目で次のように記します。
(1)諸方の神社仏閣、聖地霊場を参詣してまわること。信仰のためにいろいろな場所を巡拝すること。また、その巡拝する人。
(2)キリスト教徒やイスラム教徒が、聖地パレスチナやメッカ、その他の聖地、霊場などにいくことをいう。特にキリスト教文化圏では、パレスチナのほか、ローマ、スペインのサンチアゴ・デ・コンポステラ、フランスのルルドなども知られる。償罪の行為として、すすめられるもの。聖地巡拝。
(3)((1)が施しを受けるため常に杓を持っているところから)ひしゃくをいう、盗人仲間の隠語。〔日本隠語集{1892}〕
盗人仲間の隠語で「柄杓」の意があるとは知りませんでした。ところで、国内の巡礼に絞りますと、同じくジャパンナレッジ「国史大辞典」の【巡礼】の項目には次のような記述があります。
聖地や霊場に参詣の旅をし、信仰を深める宗教行事、およびその旅をする人をいう。観音霊場を巡拝する場合に限り順礼とも記す。これを成し遂げることにより、誓願が成就し、特別の功徳が得られると信ぜられた。(中略)平安時代に入唐僧が天台山や五台山に巡礼をした記録が、わが国の文書に巡礼の語が最初にみえる記録である。巡礼の行事は平安遷都ののちに、京都の住人が南都(奈良)の七大寺詣にでかけたことが最初であろう。平安時代中期以降に寺門派の修行僧によって行われた観音の三十三所巡礼が、戦国時代ころから一般に行われるようになり、各地に新しく三十三所が設けられるようになった。また四国の弘法大師信仰による八十八ヵ所の巡礼も盛んに行われた。江戸や大坂では、六阿弥陀詣や七福神詣が行われた。
国内巡礼の嚆矢と目される「(南都)七大寺」について、「国史大辞典」には「大江親通の『七大寺巡礼私記』(保延六年(一一四〇)ごろ)に七大寺のほか唐招提寺を記しているのは、この寺は薬師寺に近く、巡礼のとき見逃がせないから付記したもので、『拾芥抄』『塵添壒嚢鈔』『七大寺日記』『七大寺年表』なども七大寺として東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺をあげている」とあります。
「七大寺日記」は「群書類従」(続)に収載されていて、ジャパンナレッジでも閲覧できます。「奈良の都を中心として点在する奈良七大寺へ巡礼する参拝者のために、各寺院の堂塔および諸堂に安置されている本尊や宝物を解説したもの」(「続群書類従」書誌情報)で、また「平安時代末期に南都七大寺などを巡礼した際の見聞記。嘉祥元年(1106)大江親通の撰とされる。内容は、東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・西大寺・薬師寺・法隆寺の順に、各寺の縁起・堂舎・仏像などについて簡略に記し、行基の伝記を書き加えている。『七大寺巡礼私記』と並んで、12世紀頃の南都寺院の状況を記す史料として重要である。(中略)建長7年(1255)に書写されたもの」(文化庁・文化遺産オンライン)といいます。
ただし、「七大寺日記」の記載順である1東大寺⇒2
南都七大寺の筆頭格「東大寺」は平城外京に位置した。
七大寺巡礼に次いで「平安時代中期以降に寺門派の修行僧によって行われた観音の三十三所巡礼が、戦国時代ころから一般に行われるようになり」(前掲「国史大辞典」)とありますから、三十三所の代表格、西国三十三所と坂東三十三所の観音霊場の巡礼順を見てみましょう。
西国三十三所観音霊場の第1番札所は紀伊国熊野の那智山
結願寺の谷汲山華厳寺は「西国のはずれ」といえるでしょうか。
巡拝路は大和国内や京の周辺で反時計回り(左回り)になりますが、鳥瞰的に眺めると、時計回り(右回り)となっています。同様に坂東三十三所も第1番札所の相模国鎌倉の大蔵山
(この稿続く)