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第172回 伏見のいろいろ(1)

2020年11月06日

京都盆地の東側を限る東山は、一般に北は比叡山から南は伏見稲荷大社が鎮座する稲荷山あたりまでをいいます(ジャパンナレッジ「世界大百科事典」)。しかし、なだらかな丘陵地は稲荷山からさらに南に向かって続き、大岩おおいわ山を経て南端の伏見山で宇治川にぶつかって終わります。

伏見山の標高は100メートルを少し超える程度。江戸中期以降は桃の花見物の名所となって賑わい、桃山ももやまの別称でも広く知られました。古くは木幡こはた山、松原まつばら山、江戸時代には古城こじょう山などの称があり、大正元年(1912)に明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)に選定され、現在は過半が宮内庁の管轄下に置かれています。

酒処として名高い伏見の繁華街は、この伏見山の西麓、南を宇治川に限られた低平地に開けています。

現在は過半が宮内庁管轄下となった伏見山

現在の伏見中心街の骨格を作ったのは豊臣秀吉。天正20年(文禄元年、1592)1回目の朝鮮出兵(文禄の役)の年、前年に関白の座を甥秀次に譲った秀吉は、伏見山の南麓、宇治川に近い「指月しげつの森」あたりに隠居城(伏見屋敷、指月屋敷などともいう)の普請を開始します。

翌文禄2年(1593)閏9月、秀吉は伏見屋敷に入るのですが、同年暮れには屋敷の造替・拡張を思い立ったようで(この年、淀殿が秀頼を出産)、翌文禄3年正月には新たな城郭の造営奉行衆が任命されています。

城郭拡張にあたっては、これより先、天正16年(1588)に秀吉が側室茶々(のちの淀殿)の産所として修築した淀城の天守や矢倉も移築、また、宇治川を挟んで南の向島むかいじまにも出城(向島城)を造築しました。

文禄5年(慶長元年、1596)伏見城(指月城)に、文禄の役の明講和使節の副使を迎えましたが、その直後、同年閏7月の伏見大地震で城は崩壊します(明の正使は大坂城で迎えます)。

秀吉はすぐさま伏見城の再建を開始します。今度は伏見山の山上部に本丸を持つ大規模な城郭で、前年に賜死した秀次の居所であった京の聚楽第の建物も移築されたといいます。

新たな伏見城は慶長2年(1597)に竣工しますが、翌3年8月、秀吉は同城に没し、秀頼も伏見城から大坂城に移りました。関ヶ原の合戦では東軍・西軍の攻防で相当の痛手を蒙ったものの、のち徳川氏が大規模な復興・修築を行いました。

江戸時代には徳川家康・秀忠の将軍宣下式が執り行われ、元和9年(1623)には3代家光の将軍拝任式も伏見城で行われますが、これを最後に城郭は破却され、伏見の町は城下町から商業交易都市へと転生をはかることになります。

伏見の地は、文禄3年の秀吉による伏見城拡張工事から、慶長3年に秀吉が伏見城に没するまでの間(わずか5年ほどですが)、豊臣政権の公儀の首都としての役割を果たしたことになります(一方で大坂は豊臣家の私的な城下町と位置付けられます)。

伏見城下町の本格的造営は文禄3年の指月城の拡大と軌を一にしていたようで、城の西方、伏見山西麓の緩傾斜地は武家屋敷地、その西の平坦地に東から順に京町きょうまち通、両替町りょうがえまち通、新町しんまち通の3本の南北に走る道を通して、町場の中核を担う道とします。また、のちに濠川とよばれる外堀を造成、その外側にも町場が形成されました。

土木工事では、それまで巨椋おぐら池に流入していた宇治川を池から切り離して北上させ、今日みるような流路に変更、さらに町場の南方を西流させて淀川と結び、大坂‐伏見間の水運を開きました。この折に、太閤堤と総称される多くの堤防が巨椋池の池周および池中に築かれました。

地図の中心部を南北に走るのが両替町通

陸路では京‐伏見間を結ぶ竹田たけだ街道、京街道、巨椋池の島々を結んで縦断して奈良へ至る新大和街道、淀・大山崎おおやまざき(京都府大山崎町)を経て大坂に至る大坂街道、藤森ふじのもりから大岩山と稲荷山の鞍部を抜けて大津に至る大津街道、六地蔵ろくじぞう(一部は現宇治市)から木幡(現宇治市)を経て宇治に至る宇治街道などを造成または改修整備しました。

じつは、秀吉のあとを継いだ徳川氏も商業交易都市としての伏見の発展には力を尽くしています。慶長6年(1601)には両替町通に銀座(伏見銀座)を開き(同13年、京都に移転)、元和4年(1618)には角倉了以によって当地と京を結ぶ高瀬川が開削されました。

江戸時代、西国の諸大名は船で伏見浜に上陸、秀吉が整備した大津街道で大津に出て東海道に合流し、江戸へ向かいました。これは西国大名が京都に出て朝廷と接触することを幕府が嫌ったためといわれます。この道筋(旧大津街道)は江戸時代には道中奉行の管轄で、東海道の別路とみなされ、伏見宿の宿建人馬は100人・100疋でした。

また、大坂から三十石船で淀川を上った物資は、伏見浜で高瀬船に積み替えられ、京に運ばれました。伏見は淀川水運の水上交通と陸上交通の結節点として、賑わうこととなります。

伏見城下の外堀だった濠川沿いに、江戸時代は船問屋が立ち並んでいた

伏見は古くは「俯見」「伏水」などとも記され、「日本書紀」雄略天皇17年3月2日条に「摂津国来狭々村山背国内村俯見村伊勢国藤形村及丹波但馬因幡私民部」とみえますが、この「俯見村」を「山背国俯見村」と解するか否かには異説もあります。下って平安京が造成されると、巨椋池を望む伏見は貴族たちの遊猟地あるいは別業地となって発展、11世紀には藤原頼通の第3子で伏見長者と称された橘俊綱の伏見山荘(伏見殿)も造営されます。

この山荘を中核にして形成された庄園が伏見庄で、後に皇室御領として伏見宮家代々が相承します。伏見庄の庄域に成立した9つの郷村は「伏見九郷」と通称されましたが(具体的な村名には異同があります)、九郷の総鎮守的意味をもった御香宮ごこうぐうは、宗教的な面ばかりでなく、郷民の日常あるいは非常時の寄合いの場であり、また結集の場でもありました。

次回は、この「伏見」の地名について考察します。

(この稿続く)

(なお、ここまでの記述はジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【伏見区】【伏見町】【伏見城跡】【伏見庄】【伏見九郷】などの項目に依拠しました)