日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第136回 木津と木津川

2017年11月02日

京都府木津川きづがわ市の南西部、よど川の支流である木津川が、それまでの西流から大きく北流に転じる直前の南岸部、現在の木津川市木津・木津町きづまち(かつては京都府相楽そうらく木津町きづちょうのうち)の一帯は、古代には「泉木津いずみきづ」とよばれていました。

ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【泉木津】の項目は次のように記します。

現木津町大字木津・大字木津町きづまち付近にあった古代からの木津川の津。単に木津ともいい、史料により「和泉木津」「和木津」とも出る。「和名抄」に記す水泉いずみ郷の地にあたり、泉を冠するのは木津川を古くには泉川とよんだことに由縁する。

「木津」とは「木材の津(港)」を意味しますが、木津川の呼称について「日本歴史地名大系」【木津川】の項目(京都府の地名)には次のような記述があります。

川名は流域によって伊賀いが川(夢絃峡まで)・笠置かさぎ川(相楽郡笠置町付近)・かも川(同加茂町付近)ともよばれる。また古文献には和訶羅わから河(古事記)、輪韓わから河・山背やましろ川(日本書紀)、いずみ河(泉の川・泉水川・和泉川とも書かれる。「万葉集」「中右記」など)、鴨川(万葉集)などと記されてきた。また「こつかわ」(「山科家礼記」など)ともよばれている。古くから歌に詠まれ、泉河・鴨川は歌枕でもある。

泉川をはじめ伊賀川・笠置川・鴨川・山背川・「わから川」・「こつかわ」など多くの異称があった木津川が、のちに木津川の名称に定着したのは、この「泉木津」の存在が大きかったと考えられます。「泉木津」が河川を通じて諸国と繋がっていたことについて、

木津川の流れ込んでいた旧巨椋おぐら池を通じて宇治川・桂川(大堰川)・淀川の諸川と結びつき、琵琶湖の大津おおつ(現滋賀県大津市)・宇治津・岡屋おかのや津(現宇治市)・淀津(現京都市伏見区)・梅津うめづ(現京都市右京区)・保津ほづ(現亀岡市)、さらには丹波の山国やまぐに(現北桑田郡京北町)や大阪湾・瀬戸内と結ばれていた。また平城京とは奈良山越(山背道)で至近の距離にある。

と記されます。京都盆地の最底部に昭和10年代まで所在した淡水湖・巨椋池を結節点として、淀川水系の諸河川と繋がり、伊賀国・山城国・近江国・丹波国、そして大阪湾・瀬戸内とも結ばれていたことがわかります。そして、「泉木津」が、いかに重要な木津(木材の津=陸揚げ港)であったかについては、

古代の史料では南都の寺院関係文書にその名が多くみえるが、藤原ふじわら京(跡地は現奈良県橿原市)・平城京造営材の調達にも中心的役割を果した。「万葉集」巻一の藤原宮の役民の作る歌に「泉の河に 持ち越せる真木の嬬手を 百足らず筏に作り 泝すらむ」とあるのはそれをうかがわせ、平城宮出土木簡に「泉□材」と記したものがある。

泉木津には奈良時代から南都諸大寺の木屋が設けられていたが(中略)、泉木津には先に記したように材木の集積・運搬・購入・加工のための木屋所が設けられていた。木屋に関する史料のほとんどは寺院にかかわるものであるが、官衙の木屋所も置かれていたと思われ、近年発掘調査された上津こうづ遺跡もそれに類する施設であった可能性が強い。(以下略)

との記載があります。藤原京・平城京の建設工事、南都諸大寺の造立にあたって、水運によって集められた淀川水系の木材が「泉木津」で陸揚げされ、奈良山を越えて建設現場まで運搬されたことをうかがわせると同時に、「泉木津」の存在によって「木津川」の名称が生じたことも合点がゆきます。

木津川市の中心市街。奈良時代の「木屋」もこの付近に所在したか。

現在の木津川は京都府八幡やわた市と京都府乙訓おとくに大山崎おおやまざき町・大阪府三島みしま島本しまもと町との境界付近で宇治川や桂川と合流し、淀川となって流下しています。その淀川は、大阪市都島みやこじま区と北区の境にある毛馬閘門けまこうもんで大川(従来の淀川本流)を分け、かつての新淀川放水路を現在の本流として大阪湾に流れ込んでいます。

毛馬閘門で分派した本来の淀川本流である大川は、中之島(大阪市北区)によって土佐堀とさぼり川と堂島どうじま川の南北2流に分かれて西流し、中之島の西端で再び合流します。しかし、合流したとたん、安治あじ川(西南流)と木津川(南流)に分かれ、さらに、木津川は、大阪ドーム(京セラドーム)の近くで東岸に道頓堀どうとんぼり川を入れると同時に、西岸から尻無しりなし川を分派、結局、大川は安治川・木津川・尻無川の3川となって大阪湾に注いでいます。

ところで、大川の分流である木津川の名称は、かつて、その流域に「木材の津(港)」(木津)があったことに由来すると考えられます。この「木津」を継承したと思われる江戸時代の木津村(村域は現在の大阪市浪速なにわ区西南部から西成にしなり区北西部にかけて)について、「日本歴史地名大系」【木津村】の項目には次のようにみえます。

古くは海浜の寄洲で「万葉集」巻一二などにみえる「敷津の浦」を当地辺りに比定する説もある。また、聖徳太子が四天王寺(現天王寺区)を造立するため諸国からその用材を集めた所と伝え、村名もこの伝承にちなむ。「源平盛衰記」巻四七(北条上洛平孫を尋ぬ付髑髏尼御前の事)に、髑髏の尼が「今宮の前木津と云ふ所」から難波の海に入水した記事がみえる。中世、当地辺りに四天王寺領木津庄があった。

現在の大阪市浪速区・西成区にかけて、聖徳太子創建とされる四天王寺の造立木材の陸揚げ港(木津)が所在していたという伝承があったことがわかります。

このあたりが江戸時代の木津村。地図の左端の河川が木津川。

こうしてみますと、淀川支流の木津川、同じく分流の木津川ともに、古代における淀川水系水運の要所であった「木津」にその名称の淵源があり、また、両「木津」は古代の大規模建設工事に欠かせない用材の流通拠点であったことがわかりました。

じつは、大阪府堺市の百舌鳥もず古墳群、大阪府羽曳野はびきの市・藤井寺ふじいでら市の古市ふるいち古墳群や奈良県飛鳥地方(奈良盆地南部)の諸遺跡など、5~7世紀の大規模な施設は大和川の流域で発達し、当然のことながら資材の運搬には大和川の水運が重要な役割を果たしたと推定されます。

大和川は奈良盆地の水を集めて西流し、生駒いこま山地と金剛こんごう山地の間を抜けて河内平野に向かいました。現在の大和川は大阪市と堺市の境で大阪湾に流入していますが、かつては大阪城の北方で淀川に注いでおり、淀川水系の河川のひとつでしたが……。

7世紀後半になると、王都は飛鳥地方を出て藤原京・平城京と奈良盆地を北進します(王都建設にあたって用材は淀川水系によって調達されましたが、藤原京・平城京の所在地そのものは大和川水系に属しました)。8世紀後半になると、長岡京から平安京へと京都盆地に入り、ついに王都の所在地自体が淀川水系に交替します。

淀川支流の木津川と分流の木津川、王権が流通の大動脈を大和川水系から淀川水系に交替する時期に重要な役割を果たした「木津」に由来する両河川は、ともに時代の変換点に立ち会った河川といえるでしょう。

(この稿終わり)