京都府
ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【泉木津】の項目は次のように記します。
現木津町大字木津・大字
「木津」とは「木材の津(港)」を意味しますが、木津川の呼称について「日本歴史地名大系」【木津川】の項目(京都府の地名)には次のような記述があります。
川名は流域によって
泉川をはじめ伊賀川・笠置川・鴨川・山背川・「わから川」・「こつかわ」など多くの異称があった木津川が、のちに木津川の名称に定着したのは、この「泉木津」の存在が大きかったと考えられます。「泉木津」が河川を通じて諸国と繋がっていたことについて、
木津川の流れ込んでいた旧
と記されます。京都盆地の最底部に昭和10年代まで所在した淡水湖・巨椋池を結節点として、淀川水系の諸河川と繋がり、伊賀国・山城国・近江国・丹波国、そして大阪湾・瀬戸内とも結ばれていたことがわかります。そして、「泉木津」が、いかに重要な木津(木材の津=陸揚げ港)であったかについては、
古代の史料では南都の寺院関係文書にその名が多くみえるが、
泉木津には奈良時代から南都諸大寺の木屋が設けられていたが(中略)、泉木津には先に記したように材木の集積・運搬・購入・加工のための木屋所が設けられていた。木屋に関する史料のほとんどは寺院にかかわるものであるが、官衙の木屋所も置かれていたと思われ、近年発掘調査された
との記載があります。藤原京・平城京の建設工事、南都諸大寺の造立にあたって、水運によって集められた淀川水系の木材が「泉木津」で陸揚げされ、奈良山を越えて建設現場まで運搬されたことをうかがわせると同時に、「泉木津」の存在によって「木津川」の名称が生じたことも合点がゆきます。
木津川市の中心市街。奈良時代の「木屋」もこの付近に所在したか。
現在の木津川は京都府
毛馬閘門で分派した本来の淀川本流である大川は、中之島(大阪市北区)によって
ところで、大川の分流である木津川の名称は、かつて、その流域に「木材の津(港)」(木津)があったことに由来すると考えられます。この「木津」を継承したと思われる江戸時代の木津村(村域は現在の大阪市
古くは海浜の寄洲で「万葉集」巻一二などにみえる「敷津の浦」を当地辺りに比定する説もある。また、聖徳太子が四天王寺(現天王寺区)を造立するため諸国からその用材を集めた所と伝え、村名もこの伝承にちなむ。「源平盛衰記」巻四七(北条上洛平孫を尋ぬ付髑髏尼御前の事)に、髑髏の尼が「今宮の前木津と云ふ所」から難波の海に入水した記事がみえる。中世、当地辺りに四天王寺領木津庄があった。
現在の大阪市浪速区・西成区にかけて、聖徳太子創建とされる四天王寺の造立木材の陸揚げ港(木津)が所在していたという伝承があったことがわかります。
このあたりが江戸時代の木津村。地図の左端の河川が木津川。
こうしてみますと、淀川支流の木津川、同じく分流の木津川ともに、古代における淀川水系水運の要所であった「木津」にその名称の淵源があり、また、両「木津」は古代の大規模建設工事に欠かせない用材の流通拠点であったことがわかりました。
じつは、大阪府堺市の
大和川は奈良盆地の水を集めて西流し、
7世紀後半になると、王都は飛鳥地方を出て藤原京・平城京と奈良盆地を北進します(王都建設にあたって用材は淀川水系によって調達されましたが、藤原京・平城京の所在地そのものは大和川水系に属しました)。8世紀後半になると、長岡京から平安京へと京都盆地に入り、ついに王都の所在地自体が淀川水系に交替します。
淀川支流の木津川と分流の木津川、王権が流通の大動脈を大和川水系から淀川水系に交替する時期に重要な役割を果たした「木津」に由来する両河川は、ともに時代の変換点に立ち会った河川といえるでしょう。
(この稿終わり)