日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第118回 村岡五郎の住まい(1)

2016年05月13日

村岡むらおか 五郎ごろうって誰? 「赤毛のアン」の翻訳者村岡花子の旦那? 違います。花子氏の旦那は村岡儆三けいぞう氏!

村岡五郎とは、桓武天皇の曾孫村岡 高望王たかもちおう(上総介平高望)の子で、鎮守府将軍に任じられたとされる平良文たいらのよしぶみの称。桓武平氏のなかで関東諸国に蟠踞した「坂東八平氏」はすべて平良文(=村岡五郎)の流れを汲んでいるといわれています。良文は平将門の叔父にあたり(将門の父、平良将よしまさは良文の兄)、平将門の乱で将門に討たれた常陸大掾平国香くにかも良文の兄(長兄)にあたります。ところが「将門記」のなかに、良文に関する記述は一切なく、謎多き人物といえるでしょうか。

「坂東八平氏」とは(諸説はありますが)一般的に上総かずさ千葉ちば三浦みうら土肥どい秩父ちちぶ大庭おおば梶原かじわら長尾ながおの8氏をいいます(「尊卑分脉」は三浦・大庭・梶原・長尾の4氏を、良文の弟である平良茂よしもちの末裔としていますが、良文流とする系図類も数多くあります)。そして、この8氏の苗字の地となったのは以下の地域でした。

○上総氏=上総国
○千葉氏=下総国千葉郡千葉庄
○三浦氏=相模国御浦(三浦)郡
○土肥氏=相模国足下あししも郡(足柄下郡)土肥郷
○秩父氏=武蔵国秩父郡
○大庭氏=相模国高座たかくら(「こうざ」とも)郡大庭御厨
○梶原氏=相模国鎌倉郡梶原郷
○長尾氏=相模国鎌倉郡長尾村

下総・上総・武蔵・相模……良文の子孫たちは関東地方南部に勢力を扶植していたようです。ところで、はじめに平良文は「村岡五郎」と称していたと記しましたが、「尊卑分脉」によれば、良文の子平忠頼ただより(「経明」とも)も「村岡次郎」を名乗っています。坂東八平氏がそれぞれの本拠地を苗字としているように、「村岡」を称した平良文・忠頼父子の本拠地は「村岡」であったと考えるのは、けだし妥当な推測といえるでしょう。

そこで、ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、都道府県絞り込みでは「関東」にチェックを入れて「村岡」と入力、見出し検索をかけますと、茨城県結城ゆうき千代川ちよかわ村(現在は下妻しもつま市)の「村岡村」と、埼玉県熊谷市の「村岡村」の2件がヒットしました。千代川村の村岡村は古くは下総国(岡田郡=豊田郡)、熊谷市の村岡村は武蔵国(大里郡)に属していましたから、良文の末裔たちが勢威を振るった地域=南関東に合致しています。

現下妻市村岡地区では、地内高堀たかほりに平良文の館があったとの伝承が残されていますし、熊谷市村岡の地も中世の鎌倉街道が通る交通の要衝で、ともに良文が本拠とした(苗字の地にした)としてもおかしくない条件を備えています。

しかし、千代川村の【村岡村】の項には「平将門の叔父良文が村岡五郎を称するのは当村に住したためといわれるが、相模国または武蔵国大里郡の村岡とする説もある」との記述があり、熊谷市の【村岡村】の項は「新編武蔵風土記稿」からの「往昔村岡五郎良文五代孫権五郎忠通此所ニ住セシ故ヲ以此名アリ」との文言を引き、「平良文(村岡五郎)が居住したという相州鎌倉郡村岡郷(現同県藤沢市)の地名を移したとしている」と記し、平良文・忠頼父子が住した「村岡」であることをあまり強調していません。

田園地帯に位置する下妻市村岡地区。

荒川を挟み熊谷市街の対岸に位置する交通の要衝、熊谷市村岡地区。

では、千代川・熊谷の両「村岡」項目の記述が一目も二目も置いている「相模国……の村岡」「相州鎌倉郡村岡郷」とはどのあたりなのでしょうか?

残念ながら良文と同時代の史料で「鎌倉郡村岡郷」は確認できません。しかし、鎌倉時代以降の鶴岡八幡宮社務職の補任記である「鶴岡八幡宮寺社務職次第」に「鎌倉郡谷七郷」のひとつとして郷名が挙げられています。「日本歴史地名大系」によると、現在の藤沢市東南部、さかい川と柏尾かしお川に挟まれた丘陵先端部から沖積低地にかけての一帯にあたり、江戸時代には宮前みやのまえ小塚こつか高谷たかや弥勒寺みろくじ渡内わたうちの5か村を「村岡郷五ヵ村」と称したといいます。

村岡郷五か村の総鎮守であった藤沢市宮前の御霊ごりょう神社は「縁起によれば天慶三年(九四〇)平良文(村岡五郎)が当地に居住の折、京都より早良親王の霊を勧請したのが最初で、後に景政の霊を合祀して二座とし、さらにその後北条時頼の命により葛原親王・高見王・高望王を加え祀」ったといいますし(宮前村【御霊神社】の項)、藤沢市村岡東3丁目の村岡城址公園も平良文の館跡とされており、かなり有力な候補地といえるでしょう。

村岡五郎の苗字の地の本命、藤沢市「旧村岡郷」地区。

ここまでは、平良文が苗字の地とした「村岡」の有力候補地として、藤沢市の村岡地区が第1にあげられ、その後ろ、やや離れたところに下妻市村岡地区と熊谷市村岡地区が続いている、といった状況です。

ところで、「村岡」の地名は残されていないのですが、平良文が住居を構えた地として、もうひとつ有力な地域があります。それは、現在の千葉県香取市阿玉台あたまだいを中心とする一帯です。

阿玉台といえば、縄文中期の標式土器である阿玉台式土器が発見された阿玉台貝塚が有名ですが、地内の「本立」地区には平良文の居館があったといわれます。明治22年(1889)には香取郡阿玉台村および五郷内ごごうち村、久保くぼ村(江戸時代は阿玉久保村)、和泉いずみ村、貝塚かいづか村の計5か村が合併して良文よしぶみ村が成立します(良文村は昭和30年に小見川おみがわ町と合併。平成18年、小見川町は佐原市などと合併し、香取市が誕生しました)。この「良文村」の村名は、もちろん平良文に由来していました……。

もう少しだけ、村岡五郎の住まい探しを続けたいと思います。

(この稿続く)