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第81回 似た者同士、神戸と横浜

2014年10月10日

(かなり古い言葉ですが)ハイカラでモダンな町は? と聞かれて、神戸と横浜を思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。どちらも幕末・維新期に開かれた港を中心に発達した町で、開港以来、ともに西洋文明の受入口となり、外国籍住民の比率が極めて高いことも共通します。また、「神戸系」とか「浜トラ」(これも相当古い言葉ですが)とか、ファッションの発信基地になっているところも似通っています。

じつは、両者が港町として発展する経緯もよく似ていました。そもそものきっかけは、幕府が安政5年(1858)にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5か国と結んだ修好通商条約(安政5箇国条約)です。そのなかで、幕府は箱館(函館)・神奈川(実際は横浜)・長崎・新潟・兵庫(実際は神戸)を開港し、江戸・大坂を開市することを約しました。これをうけ、翌安政6年6月2日(西暦では1859年7月1日)に箱館・横浜・長崎の3港が開港します。次いで慶応3年12月7日(西暦では1868年1月1日)に神戸と大坂(開市)、明治元年11月19日(西暦では1869年1月1日)に新潟と東京(開市)が開かれました。

ところで、当初、諸外国の要求は兵庫と神奈川でしたが、実際に開港場となったのは神戸(当時は神戸村)と横浜(当時は横浜村)でした。「兵庫」とは、みなと川の河口に位置する山陽道の兵庫宿(現神戸市兵庫区)のことであり、その港とは、古代の大輪田泊おおわだのとまりを継承する兵庫津ひょうごのつでした。一方、「神奈川」とは東海道の神奈川宿(現横浜市神奈川区)のことで、港とは宿に接した海浜。しかし、幕府は人の往来の繁多な主要街道の宿場に外国人が居留することを嫌ったらしく、また、その他さまざまな政治上の判断から、両宿場ではなく、その近隣に位置し、(宿場町との比較でいえば)寒村であった神戸村、横浜村を開港場と決めたようです。

このあたりの経緯をジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【横浜村】の項目は次のように記します。

幕府は東海道の宿場町に外国人が立入ることをきらい、神奈川海岸が遠浅であるとの地理的条件などを理由に横浜開港を外国側に提案した。外国側は通商上不適当として条約どおりの神奈川開港を譲らなかったが、幕府は同六年一月には北方村・本牧本郷ほんもくほんごう村・根岸ねぎし村・中村・堀之内村とともに上知し、三月には独断で当村開港場の建設に着手した(幕末外国関係文書)。日米和親条約締結地に税関および外交関係事務を扱う運上所を建設し、近傍に神奈川奉行支配向役宅長屋二〇棟を建設し、外国人と移住してきた日本人商人へ二棟ずつが貸付けられた。この四棟は駒形町と命名され、横浜町名の嚆矢となった。

神戸については【大輪田泊・兵庫津】の項目に次のようにあります。

安政五年(一八五八)幕府は箱館産物会所を兵庫に開設して蝦夷地産物の専売を始めたが、この頃から幕末世情は急に慌ただしくなった。同年の仮条約で兵庫開港が決まり、兵庫では川崎かわさき・和田岬に砲台が造られることになり、工事の人足景気が起こった。慶応二年(一八六六)の長州再征では幕軍の海上輸送の拠点となって、陸路来津した軍隊の便船待ちで町は混雑した。(中略)同年(慶応三年)一二月七日(西暦一八六八年一月一日)、兵庫開港の名のもとに東隣神戸浦(現中央区)が開港され、兵庫勤番所には兵庫鎮台が置かれ、兵庫裁判所・兵庫県庁と変遷したが、県庁はほどなく坂本さかもと村(現同上)に移り、都心を神戸に譲ることになった。

ここに見える「兵庫裁判所」の裁判所とは司法の府ではなく、現在でいえば、県庁・市役所といった行政府にあたります。兵庫(宿)は一帯の中心市街の地位を開港場(神戸)に取って代わられたのですが、兵庫の地名はのちの兵庫県という県名に継承されました。

横浜でいえば、開港後、幕府は横浜開港場の北方に位置する戸部とべ村(現横浜市中区・西区)に神奈川奉行所を設け、江戸開城後の慶応4年(1868)4月には、「明治政府の横浜裁判所総督東久世通禧・同副総督鍋島直正らは軍を率いて横浜に進駐、同二〇日、最後の神奈川奉行水野良之・依田盛克から建物および一切の事務引継ぎを終了、設置以来九年間で神奈川奉行所は廃止され、神奈川裁判所」となりました(【神奈川裁判所跡】の項目)。この神奈川裁判所が6月に「神奈川府」と改称、9月には神奈川県と改め、現在の神奈川県の母体となります。

開港場(横浜)がのちの県庁所在地の市名となり、行政官庁(神奈川裁判所)の名称が県名に引き継がれた点は、神戸・兵庫の関係と同様といえるでしょう。ちなみに、「明治政府の横浜裁判所総督」であった東久世ひがしくぜ 通禧みちとみ(七卿落ちの一人)は、その後に「兵庫裁判所」の初代総督に就任しており、なにやら因縁めいた関係すら感じられます。

地図の中ほど上部一帯が山下外国人居留地、下部一帯が山手外国人居留地

また、江戸時代の神戸村の範囲を現在の住居表示でいえば神戸市中央区元町通もとまちどおり1-3丁目・栄町通さかえまちどおり1-3丁目・海岸通かいがんどおり1-3丁目・西町にしまち前町まえまち明石町あかしまち播磨町はりままち浪花町なにわまち海岸通かいがんどおり京町きょうまち江戸町えどまち伊藤町いとうまち東町ひがしまち加納町かのうちょう5-6丁目・三宮町さんのみやちょう1-3目・北長狭通きたながさどおり2-3丁目・下山手通しもやまてどおり1-3丁目・中山手通なかやまてどおり2-4丁目・山本通やまもとどおり3丁目など、となり、

同じく江戸時代の横浜村の範囲は、横浜市中区海岸通かいがんどおり1-5丁目・元浜町もとはまちょう1-4丁目・北仲通きたなかどおり1-6丁目・本町ほんちょう1-6丁目・南仲通みなみなかどおり1-5丁目・弁天通べんてんどおり1-6丁目・日本大通にほんおおどおり山下町やましたちょう元町もとまち1-5丁目・山手町やまてちょう、となります(現在町名はいずれも「日本歴史地名大系」の『兵庫県の地名』『神奈川県の地名』刊行当時)。

全国各地の城下町に同じ町名が分布しているのに通じるような、似た響きをもつ町名が神戸・横浜にもみられるのではないでしょうか。

そういえば、東海道新幹線の新横浜駅、山陽新幹線の新神戸駅が設置されたとき、在来の横浜駅、三宮駅(神戸駅)とのアクセスがあまり良くないことも同じように有名でした(両者とも地下鉄開通などで改善されましたが)。よくよく似た者同士です。

ところで、最近は数値のうえでは、少しばかり横浜市が神戸市の優位にたっているようです。たとえば港湾の取扱貨物量でみれば、かつては他の諸港を圧倒的に引き離して神戸港と横浜港が競い合っていましたが(1930年代から敗戦までは、横浜・神戸両港に大阪港を加えた三つ巴)、近年の数値でいうと、横浜港が名古屋港、千葉港に次いで第3位の座を確保しているのに対して、神戸港は、苫小牧(北海道)、川崎、大阪、水島(岡山県)、北九州などの諸港と抜きつ抜かれつで、6位から9位の間を上下しています。

人口の面からみても、大正9年(1910)の第1回国勢調査の時点では、神戸市の約60万9千人に対して、横浜市は約42万3千人、昭和35年(1960)の国勢調査では、神戸市約111万4千人に対して、横浜市が約137万6千人(数値はいずれも当時の市域の人数)と逆転しますが、がっぷり四つに組み合っています。しかし、平成22年(2010)の国勢調査では、神戸市は約154万4千人で全国6位であるのに対して、横浜市は約368万9千人で、東京区部(23区)に次いで全国2位を誇っています。

劣勢に立たされている神戸市ですが、筆者からみると、横浜市が束になっても敵わないようなところも幾つか神戸市にはあるように思われます。

まず第一に挙げたいのは六甲ろっこう山地(最高峰、六甲山の標高は931メートル)の景観。ほぼ全域が瀬戸内海国立公園に指定されていて豊かな自然が保たれ、本格的な登山からトレッキングまで幅広い登り方が選択できます。大都市の近くにあって自然環境が素晴らしいということで、近頃、東京の高尾たかお山が脚光を浴びていますが、中心市街からのアクセスのよさを勘案すれば、六甲山が横綱、高尾山は小結(筆者の判定です)といったところでしょうか。横浜市内にも多摩丘陵や三浦丘陵の緑地が幾らか残されていて、自然に接する環境も保たれていますが、何せ市域の最高点が標高160メートル弱、幕下上位と判定しておきます。

自然豊かな六甲山地に接して神戸市街が広がる

第二に挙げるのは有馬ありま温泉(神戸市北区)です。『日本書紀』に「有間温湯」「有間温湯宮」とその名が見える由緒ある温泉であり、現在も「阪神の奥座敷」の地位を不動のものとしています。対する横浜市には、かつて「東京の奥座敷」とよばれたこともある綱島つなしま温泉(横浜市港北区)がありますが、現在は宿泊施設も整備されていないようで、歴史、規模いずれをとっても横浜市の完敗といえるでしょう。

筆者は最後に神戸市の「灘の酒造」も挙げようとしたのですが、今度は横浜市も黙っておりませんでした。キリンビール横浜工場は、国産ビール発祥地とされる「横浜市・山手」にあったアメリカ人ウィリアム・コープランドのビール工場を継承するビール工場だと謳っており(実際にはこれより先にローゼンフェルトが開業した醸造所も山手にはあったようです)、この勝負は引き分けと判定しました。

一世紀半にわたり港町として繁栄を続ける横浜市と神戸市。勝負の帰趨はともかくとして、両者に共通する他の主要都市にはみられない歴史と特徴を活かした魅力的な街づくりを、両者で競い合いながら、これからも続けてもらいたい、と切に願う次第です。