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第80回 過ぎし日の繁栄を物語る「千軒」地名(3)

2014年09月26日

「千軒」地名最終回の今回は、「千軒の衰退」についての考察です。先回、「千軒」地名を大雑把に「鉱山関連」「宗教関連」「流通・商業関連」「生産・工業関連」にわけましたが、このうち、「鉱山関連」でいえば、誰もがそう思われるように、鉱脈の枯渇が集落衰退の第一要因と考えられます。

そこで、先に「鉱山関連の『千軒』地名が多い」と記した「北海道・東北地方」を取り上げてみましょう。まず、詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、絞り込み(ファセット)で「北海道・東北地方」にチェックを入れ、「千軒」と「鉱山」の2語をキーワードに、全文でand検索をかけますと15件がヒットしました。そのなかから一、二を取り上げます。ちなみに、同様の絞り込みで、「千軒」と「金山」の2語をキーワードにした場合(and検索)は18件、「千軒」と「銀山」の2語では10件がヒットします(いずれの場合も重複を含みます)。

「千軒」と「鉱山」でヒットした秋田市・新城しんじょう地区・白山しらやま村の【白山沢銀山】の項目は次のように記します。

長坂千軒部落ながさかせんげんぶらく跡とよばれる地があり、鉱山町としてごく短期間賑ったといわれる。元禄一五年(一七〇二)の出羽国秋田領変地其外相改候目録(県立秋田図書館蔵)に「白山村之内銀山、(中略)古絵図ニ御座候処今度相改申処ニ捨リ申候、新絵図ニ相除申候」とあり、銀山は衰退したと思われる。秋田領内諸金山箇所年数帳(旧「秋田県史」)によると、「白山新見立銀山」が、享保一六年(一七三一)から三ヵ年小友おとも村の三五郎と甚右衛門が引き継ぎ請山となっている。また白山銀山近くに大作沢おおつくりさわ鉛山・水呑沢みずのみさわ鉛山の名が記される。

また、山形県南陽市の【荻村おぎむら】の項目には次のような記述があります。

当地域の鉱山は吉野(赤山)、神明しんめい(金松平)、日坂ひさか(新屋敷)が中心で、吉野は奈良朝頃に採掘されたとも伝え、近世初期亜鉛(ヤニ)が多く中止されたという。神明は康治年間(一一四二―四四)採掘の伝えをもつ金山で、七百匁坑ななひゃくめこう八百匁坑はっぴゃくめこうなどの沢名がある。谷地小屋千軒やちごやせんげんの伝えがあるのは当鉱山である。寛延三年(一七五〇)勧進相撲が催されるほど繁盛したが(三重年表)、安永年間(一七七二―八一)落盤事故のため多数の鉱夫が遭難し以後廃坑になった。日坂は「樹畜建議」にも「尾左賀」としてみられ、元禄(一六八八―一七〇四)の頃から金鉱として採掘が始まったともいう。これらのほか、旭鉱山(宮の下)、向明(鷹の巣とも、相萩山)、山形石膏(新屋敷)、南沢(太郎字筋)等の鉱山もあった。(寺下)は戊辰戦争のとき弾丸製造用として鉛が掘られ、吉野石膏(新屋敷)は明治六年、同七年頃から良質の石膏を産し、月産四〇―五〇トンに達した。一方、鉱害問題も発生し、文政七年には小滝銅山の再開に対し差留願を提出、天保一一年(一八四〇)吉野川川下二三ヵ村が抗議している(以上「北条郷鉱山史話」)。

南陽市荻地区ではかつて多くの鉱山が稼動、時代とともに栄枯盛衰を繰り返した

鉱山集落は鉱脈の盛衰と一蓮托生であることが改めて確認できましたが、そのほかにも、落盤事故、鉱脈への異物の混入、公害問題の発生なども古くから問題となっていたことがわかります。

では、一般的な集落(「流通・商業関連」「生産・工業関連」に分類したものを含む)の場合はどうでしょうか。「一般的な集落」を取り出すキーワードを思い浮かべることができませんので、「千軒」でヒットした355件のスニペット表示を確認して、二、三取り上げてみました。はじめは福島県郡山市旧湖南村こなんむら地区の【浜路村はまじむら】の項目です。同項目では「楢崎千軒」について次のように記しています。

山地やまちの稲荷神社は、楢崎千軒ならざきせんげんの鎮守神であったが山津波で一夜にして流され、現在の阿弥陀堂の地に移した。しかし再び水害にあい現在地に移建されたという。楢崎千軒の消滅について、旅の行者の制止を無視して大道おおみち沢で毒もみ漁を決行したからとの伝承がある。

「毒もみ」とは「谷川などに山椒の木の煮汁や石灰などを流して川下の魚を捕ること」(ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」)をいいます。富山県黒部市の【前沢村まえざわ】の項目には次のような記述があります。

黒瀬くろせ川の下流地帯は水掛りがよく、堆積土で肥沃なため水田耕作が容易である。この辺りは犬山いぬやま千軒ともいわれる集落のあった所で、大源たいげん寺や見徳けんとく寺があったといわれ、今も地名が残る。嘉暦二年(一三二七)黒部川や片貝かたかい川・布施ふせ川・たに川等に大洪水があり、泥流に人家・田畑が埋没した。また砂礫が海岸河口付近に堆積したため、石野いしの村付近一帯は湿田・沼田と化した。このため丘陵末端の前沢下向しもむき付近に逃れていた人々が当地を再開拓し始めたと伝える(前沢村史)。

一般集落の最後は滋賀県伊香いか高月たかつき町(現長浜市)の【西野村にしのむら】の項目から取り上げました。

片山かたやま村の北東、南東端をかすめて南流する余呉よご川右岸平地と琵琶湖岸を南北に走るしずたけ山系の西野山丘陵に立地。西野山西麓湖岸阿曾津あそづに、往古阿曾津千軒とよばれた大集落があったが地震によって一村全滅し、逃れた村人は当村、松尾まつお(松野)・熊野くまの東柳野ひがしやないの柳野中やないのなか・西柳野・磯野いそのの七ヵ村(七野)に分住。

現西野集落の西方湖岸に地震で壊滅した「阿曾津千軒」があった

山津波、洪水、地震といった自然の脅威の前に、千軒集落がなすすべもなく潰えていったことが伺えます。最後に「宗教関連」の「千軒の衰退」はどうでしょうか。「宗教関連」についても、区分けできるキーワードが思い浮かびませんので、伝統ある神社仏閣が多い近畿地方の「千軒地名」(99件)のスニペット表示を参照して、奈良県御所ごせ倶尸羅くじら村の【安位寺あんいじ跡】の項目を取り上げてみました。

近年まで戒那かいな山と称されていた葛城かつらぎ山の山中、櫛羅くじら滝の上方にあった古代の山岳寺院。俗に戒那千坊(戒那千軒)という。戒那山と号し、別称を堺那かいな寺(戒那寺)という。寺名の「位」を一に「住」に作るのは誤写か。地元ではアンニ寺になまる。(中略)創建については、菅家本「諸寺縁起集」に「件寺者、疫(役)行者修行所也、寺者孝謙天皇位下給後、令出家住給時、建立云々、其後又号称徳天皇即位也、再即位給故仁、号安位寺云々、本尊者十一面観音也」と記すが、「不動寺縁起」には役小角が修練した所で、傍らの滝に不動石仏を安置し、その後大同年間(八〇六―八一〇)に空海が堂を建て、自作の不動を本尊として戒那山安位寺と号したとある。(中略)往古、安位寺には戒那千坊の名にふさわしく浄土じょうど院・塔南とうなん院・文殊もんじゅ院・蓮台れんだい院・清浄せいじょう院・安養あんよう院・無量寿むりょうじゅ院・法輪ほうりん院・花蔵けぞう院・ちゅう院・地蔵院・来迎らいごう 院など多くの子院のあったことが知られる(経覚私要鈔)。しかし「大乗院寺社雑事記」文明一五年(一四八三)二月二五日条に「先日安位寺大門焼失」とあり、以下「大乗院日記目録」文亀三年(一五〇三)一月一〇日条に「安位寺仏閣坊舎払地焼失」、また「多聞院日記」永正三年(一五〇六)三月一五日条に「先年依禅・学之確執、安位寺炎上了」とあり、相次ぐ兵火によって衰退したことがうかがわれる。寺跡には大門だいもん、ハカノヒナタ、ドドコロドノなどの小字があり、礎石・石垣・庭園跡・墓地が遺存する。

などとみえます。宗教関連の「千軒(千坊)」の衰退の要因は、もちろん宗派の盛衰や自然災害の影響といったこともあったのでしょうが、平清盛の南都焼討(1181年)、織田信長の比叡山焼討(1571年)などを持ち出すまでもなく、「兵火」という人災がもっとも多かったのではないでしょうか。

(この稿終わり)