日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第151回 江戸・東京桜模様(1)

2019年02月01日

ちらほらと梅の便りが届きはじめました。

しかし、先っ走りの小欄ですから(先回も新年早々に来年=2020年の話をしました)、今回は梅を飛び越えて「桜」の話題を取り上げたいと思います。ただし、筆者は半世紀近くにわたって東京に住んでいますので、「東京」(江戸)に限定した桜事情の検討になることをお許しください。

先回の東京オリンピック開催の年=1964年に「さくら」の愛護、保存、育成、普及等を目的に、超党派の国会議員有志により設立された「日本さくらの会」のホーム・ページでは、「さくら名所情報」と銘打って、全国の桜の名所を取り上げています。

そのなかで、東京都内の桜の名所として挙げられているのは、上野恩賜公園(台東区)、新宿御苑(新宿区)、隅田公園(墨田区)、小金井公園・玉川上水沿い(小金井市)、井の頭恩賜公園(武蔵野市)、千鳥ヶ淵緑道(千代田区)、神代じんだい植物公園・神代曙(調布市。「神代曙」は神代植物公園に見出されたサクラで、ソメイヨシノより赤みの強い一重の花が咲きます)、多摩森林科学園桜保存林(八王子市)の8か所。

筆者の第一印象では、飛鳥山(北区)が抜けているかな? ですが、あとは妥当な感じがしました。1911年(明治44)に刊行された若槻紫蘭の「東京年中行事」(ジャパンナレッジ「東洋文庫」で閲覧できます)では、花の名所として、小金井の桜(前掲「さくら名所情報」の小金井公園・玉川上水沿いに相当)、江北こうほくの桜(荒川堤)、向島の桜(「さくら名所情報」の隅田公園に相当)、上野公園(「さくら名所情報」の上野恩賜公園に相当)、飛鳥山の桜、江戸川の桜を都内の桜名所としてあげています。

小金井橋を中心に玉川上水沿いに連なる小金井桜。江戸市中からも花見客が訪れた

「江北の桜」は、かつての荒川堤防に植えられた桜並木で、数多くの品種があって、花の色も数種にわたっていたことから「五色桜」の異名がありました。ワシントンのポトマック河畔に植えられた桜の苗木も、ここの桜の枝を接穂したものといいます。その後、荒川放水路の開削(1911年に着工)や戦中戦後の混乱なかで荒廃、昭和20年代には姿を消しました。しかし、1981年(昭和56)にポトマック河畔から桜の里帰りが実現、現在は足立区鹿浜しかはまの都市農業公園や区内の公園などでその命脈をつなぎ、荒川土手に桜並木を復活させる活動も行われています。

「江戸川の桜」は神田川の旧称である江戸川沿いの桜で、明治時代に現在の石切いしきり橋から大曲おおまがり付近の神田川沿いに植えられ、多摩の「小金井」に対抗して「新小金井」とよばれました。その後、護岸工事などで伐採されて姿を消しましたが、1983年(昭和58)に神田川河川改修に伴って江戸川公園(文京区)から上流沿いに桜が植栽され、新たな桜の名所となっています。

昭和58年に新たに植栽された神田川の桜並木。「新・新小金井」とよぶべきか?

「東京年中行事」より前に刊行された「風俗画報」208号(明治33年4月刊。「JKBooks」で閲覧できます)では、ここまで述べてきた名所のほかに、御殿山ごてんやま(品川区)、日暮里(荒川区)、靖国神社境内(千代田区)、日枝神社境内(同区)、深川公園(江東区)、愛宕公園(港区)、清水谷しみずだに公園(千代田区)、浅草公園(台東区)、新吉原(台東区)をあげています。

このうち、「日暮里」は荒川区の谷中・修性しゅしょう院(通称花見寺)を中心に、谷中総鎮守・諏訪神社がある諏訪台にかけての一帯をさしています。「新吉原」は吉原遊郭の桜のことですが、桜の季節になると植木職人が移植して桜並木を拵えたものですから、これはちょっと例外といえるでしょう。ただし、「籠釣瓶かごつるべ 花街酔醒さとのえいざめ」など歌舞伎の舞台に取り入れられ、その絢爛さが偲ばれます。

このほか、靖国神社境内、日枝神社境内、深川公園、愛宕公園(愛宕神社一帯)、清水谷公園、浅草公園(浅草寺境内)は、それぞれ今に続く桜の名所です。「御殿山」は品川区にあった丘陵地で、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」では次のように記されています。

武蔵野台地を構成する淀橋よどばし台地のうち、高輪たかなわ台の先端部にあたる丘陵。目黒川の左岸、北品川地区の西部に位置し、丘陵の東は海、西と南側を目黒川が流れ、北には台地が継続している。御殿山の名称は、太田道灌が江戸城を築く前の長禄(一四五七―六〇)の頃に館を構えていたという伝承に由来するとの説もあるが、後述の「品川御殿」から命名されたと考えられる。(中略)
江戸時代初期から元禄一五年(一七〇二)にかけて、この地に将軍家の品川御殿が設けられ、鷹狩の際の休息所として、また幕府の重臣を招いての茶会の場として利用されていた(徳川実紀)。御殿の位置は現北品川三丁目五番付近と推定される。桜の名所で知られる御殿山は寛文(一六六一―七三)の頃から桜が移植されたと伝えられ、八代将軍徳川吉宗の園地(公園)化政策で有数の桜の名所となった(御殿山のほか飛鳥山・隅田堤・小金井堤などに桜を植樹)。塙保己一は寛政一〇年(一七九八)五月に幕府から御殿山の一角を拝借、群書類従はここで印刷、刊行された。文政七年(一八二四)の宿差出明細帳写(品川町史)によれば御殿山の面積は一万一千五五〇坪で、桜六〇〇本・櫨六〇本・松五本・雑木七五〇本と記録されている。幕末の御殿山は品川台場築造の土砂採取で一部を削られ(「内海御台場築立御普請御用日記」東京大学史料編纂所蔵)、文久元年(一八六一)には外国公使館建設が決まり、翌年完成間近の英国公使館は高杉晋作・志道聞多(井上馨)・伊藤俊輔(伊藤博文)らの尊王攘夷派の志士一三名によって焼打ちされ、建設工事は中止された(井上伯伝)。さらに明治に入り鉄道敷設工事によって御殿山は南北に貫く切通しとなり、桜の名所としての面影はなくなった。のちに原六郎・益田孝・日比谷平左衛門ら実業家の屋敷が立並び、お屋敷町とよばれるようになる。なお御殿山の範囲は現北品川三丁目・同四丁目の一部をいうが、明治初年の地租改正で設けられた字御殿山の範囲は現南品川四丁目の一部(江戸時代の東海寺の境内)も含まれる。

高級マンションが立ち並ぶ御殿山地区。江戸の面影はない

寛永寺境内を核とする上野山の一帯、および上述の「徳川吉宗の園地(公園)化政策」で桜が植樹された「御殿山のほか飛鳥山・隅田堤・小金井堤」が江戸以来の代表的な桜の名所である、という認識は(改変が激しかった「御殿山」を除いて)現在まで続いているように思えます。

(この稿続く)