日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
地名の由来、歴史、風土に至るまで、JK版「日本歴史地名大系」を駆使して解説します。
さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第28回 江戸に特有の町名、代地・代地町

2009年07月10日

幕藩体制下(江戸時代)の城下町は、領主(大名)がその住まい(城)を中心として、周囲に家臣団(武士)や職人・商人たち(町人)の居所を意図的に配置した、きわめて計画性の高い都市です。家臣団の場合、上級家臣は城の近くに、中級家臣はその周囲に、下級家臣はさらに外側にと、その階層に合わせて、それぞれをひとかたまりに配しました。

町人町でも多くの場合、同一業者は一箇所に集住させたため、材木町(77件。数値はJK版「日本歴史地名大系」〈個別検索〉の見出し検索〈部分一致〉でのヒット数。以下同じ)、呉服町(31件)、両替町(20件)、大工町(106件)、鍛冶町(87件)、伝馬町(43件)、博労町(馬喰町を含む。34件)、旅籠町(27件)などと、その職掌に由来する町名が、各城下町で共通に存在することになりました(ヒット数には湊町・宿場町・門前町・在郷町などの各町名も含まれます)。

ちなみに77件がヒットした材木町は、明治時代以降に成立した北海道釧路くしろ市の材木町を除くと、北は盛岡もりおか城下(岩手県)から南は唐津からつ城下(佐賀県)まで分布(湊町長崎の「材木町」も除く)。106件ヒットの大工町も、城下町に限定してみると、北の八戸はちのへ城下(青森県)から南の人吉ひとよし城下(熊本県)・府内ふない城下(大分県)まで展開しています。また、下級武士の職掌に由来する中間町(仲間町を含む。16件)、徒町(15件)、足軽町(6件)なども、共通してみられる町名です。このほか、寺社境内地もまとまった地区割がなされており、JK版「日本歴史地名大系」の見出し検索(部分一致)に「寺町」と入力すると、全国で351件がヒットします。

このように、江戸時代の城下町の町名には、その土地固有の町名のほかに、全国各地の城下町に共通する町名が多く含まれていることがわかります。ところで、幕藩体制のお膝元、江戸城の城下町である江戸には、○○代地、あるいは××代地町と名付けられた町が数多くありました。じつは、この〈○○代地〉〈××代地町〉という形式の町名は、ほかの城下町ではまったくみられない町名なのです。

ためしに、JK版「日本歴史地名大系」の見出し検索・部分一致で、「代地」と入力すると、149件がヒットします。うち146件が東京都(旧江戸城下)で、残る3件は長野県・福岡県・長崎県に各1件ずつ。しかし、長野県のそれは「松代まつしろ地区」の「代地」部分に、長崎県では「夜臼ゆうす三代みしろ地区」の「代地」部分に、長崎県では彼杵そのき庄の中見出し「本家・領家・惣地頭代・地頭」の「代・地」部分にヒットしていますから(新JKの部分一致検索では、ナカグロやカッコなどの記号類を飛び越して検索します)、〈代地〉〈代地町〉という町名は、ほかではみられない江戸特有の町名ということがわかります。

JK版「日本国語大辞典」によると、代地とは「公収、または領主に返還された土地の代わりに与えられる土地。替え地」とあります。江戸の「代地」町も、まさに都市江戸の再整備や区画整理の過程で、境域の一部を収公された町に対して、かわりに与えた地に成立した町です。

たとえば、現在の東京都文京区本郷ほんごう5丁目の東側、本郷通に面した一帯(東京大学本郷キャンパスの南端部の付近一帯)は、江戸時代には本郷五丁目・六丁目とよぶ2つの町がありました。文政年中(1818-30)に両町の東側の一部が火除地として収公されたため、それぞれ代地を与えられています。本郷五丁目の場合は千代田区外神田そとかんだ1丁目のうちと、文京区本郷四丁目のうちの計2箇所で、六丁目にいたっては現在の千代田区外神田1丁目のうちと、港区新橋しんばし1丁目・西新橋にししんばし1丁目のうちと、台東区浅草橋あさくさばし1丁目のうちの計3箇所に分散して「代地」が与えられており、この5箇所はそれぞれが本郷五丁目代地、あるいは本郷六丁目代地とよばれていました。

江戸時代の本郷五丁目の代地は、現在の千代田区外神田1丁目のうちにありました

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こうした領主による町の一部収公と代替地の付与という措置は各地の城下町でも行われたと思われるのですが、先述のように、「代地」「代地町」という名称は、江戸に特有の名称でした。

ひとくちに大江戸八百八町といいますが、延享2年(1745)に寺社門前(ここにいう「寺社門前」は僧侶・社家ではなく、一般の町人が住んでいました)が町奉行支配に移った際の、江戸の総町数は1687町(武家地・寺社境内地を除く)といいます(JK版「日本歴史地名大系」の〈江戸・東京〉の項目)。旧江戸城下で146件ヒットしたということは、総町数の1割近くが「代地」「代地町」であったといえます。

ところで146例のうち、見出し・後方一致の条件で「代地」と入力してヒットするのが120件、同条件で「代地町」と入力してヒットするのが23件、計143件あります。この143例の代地・代地町を地域別(旧15区別)に一覧表にすると、以下のようになります。

旧15区名代地ヒット数代地町ヒット数
麹町区2-
神田区57-
日本橋区3-
京橋区9-
芝 区73
麻布区7-
赤坂区4-
牛込区1-
本郷区33
下谷区2-
浅草区13-
本所区110
深川区119
(渋谷区)-1
旧四谷区と旧小石川区に代地町名はない

一覧表でみると、「代地」は旧神田区が突出していること、「代地町」は隅田川を渡った本所・深川地区に多いことなどが判明します。材木問屋が多かった神田佐久間町かんださくまちょうは、火事が頻発したので「悪魔町あくまちょう」と陰口をたたかれたといいますから、火事の多発した江戸でも、とりわけ火事の多かった(=都市の再整備が繰り返し行われた)神田地区に代地が多かったのでしょうか。また、本所・深川地区は町奉行(江戸町奉行)とは別に本所奉行が置かれていたように、隅田川以西の町場とは少し歴史を異にしていますから、「代地」とはいわずに「代地町」とよんだのでしょうか。興味は尽きません。

ところで、末尾に「代地」「代地町」が付かない、残る3件の「代地」について、JK版「日本歴史地名大系」の個別検索機能を活用して炙り出してみましょう。まず地域の選択を「東京都」だけにします。次いで「代地」(見出し・部分一致)にnot「代地」(見出し・後方一致)、さらにnot「代地町」(見出し・後方一致)で検索すると、「柳原岩井町代地やなぎはらいわいちょうだいち拝領屋敷はいりょうやしき」(千代田区)・「麻布竜土町代地あざぶりゅうどちょうだいち三田古川町みたふるかわちょう」(港区)・「佐賀町代地跡さがちょうだいちあと見取場みとりば」(江東区)の3件がヒットします。

このうち、麻布竜土町代地三田古川町については、JK版「日本歴史地名大系」に「新堀しんぼり川西岸低地に沿う年貢町屋。片側町で、西が麻布古川あざぶふるかわ町、南が三田古川町、北は松平邸。元禄一二年(一六九九)に麻布竜土町の元地が道路拡張で替地を三田のうち古川町隣接地に受け、正徳三年(一七一三)元地同様に町方支配になった。名主も元地と同じ」と記されますから、ほかの「代地」「代地町」と町の性質は一緒といえるでしょう。

幕藩体制の末端を支えていた町(都市部)・村(農村部)は、明治維新後の大区小区制によって制度上はいったん否定されました。明治11年(1878)公布の郡区町村編制法などを経て、新自治体としての市区町村が再編成されてゆきます。しかし、この過程のなかで、江戸の町の1割近くを占めていた「○○代地」「××代地町」といった呼称は姿を消し(現在の東京都23区の町名には1つも残っていません)、現在では、かつての江戸に「○○代地」「××代地町」とよばれる町があったことを知る人も数少なくなっています。