幕藩体制下(江戸時代)の城下町は、領主(大名)がその住まい(城)を中心として、周囲に家臣団(武士)や職人・商人たち(町人)の居所を意図的に配置した、きわめて計画性の高い都市です。家臣団の場合、上級家臣は城の近くに、中級家臣はその周囲に、下級家臣はさらに外側にと、その階層に合わせて、それぞれをひとかたまりに配しました。
町人町でも多くの場合、同一業者は一箇所に集住させたため、材木町(77件。数値はJK版「日本歴史地名大系」〈個別検索〉の見出し検索〈部分一致〉でのヒット数。以下同じ)、呉服町(31件)、両替町(20件)、大工町(106件)、鍛冶町(87件)、伝馬町(43件)、博労町(馬喰町を含む。34件)、旅籠町(27件)などと、その職掌に由来する町名が、各城下町で共通に存在することになりました(ヒット数には湊町・宿場町・門前町・在郷町などの各町名も含まれます)。
ちなみに77件がヒットした材木町は、明治時代以降に成立した北海道
このように、江戸時代の城下町の町名には、その土地固有の町名のほかに、全国各地の城下町に共通する町名が多く含まれていることがわかります。ところで、幕藩体制のお膝元、江戸城の城下町である江戸には、○○代地、あるいは××代地町と名付けられた町が数多くありました。じつは、この〈○○代地〉〈××代地町〉という形式の町名は、ほかの城下町ではまったくみられない町名なのです。
ためしに、JK版「日本歴史地名大系」の見出し検索・部分一致で、「代地」と入力すると、149件がヒットします。うち146件が東京都(旧江戸城下)で、残る3件は長野県・福岡県・長崎県に各1件ずつ。しかし、長野県のそれは「
JK版「日本国語大辞典」によると、代地とは「公収、または領主に返還された土地の代わりに与えられる土地。替え地」とあります。江戸の「代地」町も、まさに都市江戸の再整備や区画整理の過程で、境域の一部を収公された町に対して、かわりに与えた地に成立した町です。
たとえば、現在の東京都文京区
こうした領主による町の一部収公と代替地の付与という措置は各地の城下町でも行われたと思われるのですが、先述のように、「代地」「代地町」という名称は、江戸に特有の名称でした。
ひとくちに大江戸八百八町といいますが、延享2年(1745)に寺社門前(ここにいう「寺社門前」は僧侶・社家ではなく、一般の町人が住んでいました)が町奉行支配に移った際の、江戸の総町数は1687町(武家地・寺社境内地を除く)といいます(JK版「日本歴史地名大系」の〈江戸・東京〉の項目)。旧江戸城下で146件ヒットしたということは、総町数の1割近くが「代地」「代地町」であったといえます。
ところで146例のうち、見出し・後方一致の条件で「代地」と入力してヒットするのが120件、同条件で「代地町」と入力してヒットするのが23件、計143件あります。この143例の代地・代地町を地域別(旧15区別)に一覧表にすると、以下のようになります。
旧15区名 | 代地ヒット数 | 代地町ヒット数 |
麹町区 | 2 | - |
神田区 | 57 | - |
日本橋区 | 3 | - |
京橋区 | 9 | - |
芝 区 | 7 | 3 |
麻布区 | 7 | - |
赤坂区 | 4 | - |
牛込区 | 1 | - |
本郷区 | 3 | 3 |
下谷区 | 2 | - |
浅草区 | 13 | - |
本所区 | 1 | 10 |
深川区 | 11 | 9 |
(渋谷区) | - | 1 |
一覧表でみると、「代地」は旧神田区が突出していること、「代地町」は隅田川を渡った本所・深川地区に多いことなどが判明します。材木問屋が多かった
ところで、末尾に「代地」「代地町」が付かない、残る3件の「代地」について、JK版「日本歴史地名大系」の個別検索機能を活用して炙り出してみましょう。まず地域の選択を「東京都」だけにします。次いで「代地」(見出し・部分一致)にnot「代地」(見出し・後方一致)、さらにnot「代地町」(見出し・後方一致)で検索すると、「
このうち、麻布竜土町代地三田古川町については、JK版「日本歴史地名大系」に「
幕藩体制の末端を支えていた町(都市部)・村(農村部)は、明治維新後の大区小区制によって制度上はいったん否定されました。明治11年(1878)公布の郡区町村編制法などを経て、新自治体としての市区町村が再編成されてゆきます。しかし、この過程のなかで、江戸の町の1割近くを占めていた「○○代地」「××代地町」といった呼称は姿を消し(現在の東京都23区の町名には1つも残っていません)、現在では、かつての江戸に「○○代地」「××代地町」とよばれる町があったことを知る人も数少なくなっています。