日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第25回 「法城(ほうじょう)寺」に秘めた願い

2009年02月20日

京都(かも)川の東岸、京阪(けいはん)三条(さんじょう)駅のすぐ北側に心光(しんこう)寺という寺があります。法城(ほうじょう)晴明(せいめい)堂と号し、浄土宗の寺院です。JK版「日本歴史地名大系」では、『雍州府志(ようしゅうふし)』などの記載をもとに、同寺の来歴について、次のように紹介しています。

心光寺の前身は法城寺といい、陰陽家安倍晴明(あべのせいめい)の鴨川治水伝承と深く結びついた寺院である。かつては「五条橋東北中嶋」(鴨川の中洲=島)に所在し、真言宗であったが、のち改宗・改号して京都知恩院(ちおんいん)末となった。数度の洪水に遭い、慶長12年(1607)現在地に移転。この折、晴明塚(安倍晴明の塚)もともに移築されたという。

大略、以上のような記述です。なお『雍州府志』によると、「法城寺」の寺名は、「氵(水)」を「去」り、「土」と「成」すの義といいます。

五条橋中島(中嶋)とは、かつて(中世以前)の五条通(現在の松原(まつばら)通)が東に向かって洛中を抜け、鴨川を渡河する地にあった島で、当時の鴨川はこの辺りでは二流となり、中洲が形成されていました。しかし、秀吉の時代を経て、京都が近世都市へと変貌してゆく過程で消滅してしまいました。

中世史家、瀬田勝哉(せたかつや)氏の論稿「失われた五条橋中島」(『洛中洛外の群像』1994年、平凡社ライブラリー『増補洛中洛外の群像』2009年に所収)は、初期の洛中洛外図を読み解きながら、この五条橋中島が、古代―中世の都市・京都において、とくに治水や信仰の要地であり、また陰陽師晴明の徒=声聞(しょうもん)師や河原者の拠りどころとなっていたことを、躍動感豊かにに描き出しています。

同稿は、「清水観音に詣でる信仰の道の起点であり、鳥辺野に向かう死者の道の始まりでもあった」中世の五条橋中島は、「そうしたきわめて宗教性の強い橋の中ほどにある中島が、これまた京の死命をも制しかねない鴨川洪水の平穏を祈る地であったことからすると、この島は中世人が特別な信仰を寄せた聖地であった感さえしてくる」とも記します。

さて、「氵(水)」を「去」り、「土」と「成」す、という願いが秘められた「法城寺」という寺名は、仏法を護持する砦(城)というイメージも喚起され、寺名にふさわしい感があります。ところが、JK版「日本歴史地名大系」の見出し検索(完全一致)に「ほうじょうじ」の仮名読みを入力、ヒットした8件の内訳をみると、「法常寺」2件、あとは「法定寺」「法成寺」「法盛寺」「宝城寺」「宝乗寺」「北条寺」が各1件で、「法城寺」はありません。法城寺の表記は、観音寺・西方寺・浄土寺・蓮華寺といったような、寺院の名称にいかにもピッタリというものではないようです。

いっぽう、「部分一致」の条件設定で、見出し検索に「法城寺」と漢字入力すると、山梨県甲府市の「法城寺跡」1件だけがヒットします(「跡」があるため「完全一致」ではヒットしませんでした)。この甲府市の法城寺(跡)は昭和20年(1945)の空襲で焼失した臨済宗妙心寺派の寺院で、その縁起は、JK版「日本歴史地名大系」によれば、以下のようです。

法城寺

法城寺

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かつて甲斐国一国がまるまる湖であったとき、法城寺の本尊地蔵菩薩によって甲府盆地南部の山が開かれ、盆地の水は富士川に落ちて引き、甲斐国に大地が現れた。このため、法城寺の本尊は国生みの地蔵として深い信仰を集め、法城寺が破れると甲州は水害で衰微するので、甲州を支配する武将は同寺を護持するよう努めた。また法城寺の名称は「水去りて土と成る」の意である、というもので、五条橋中島の法城寺の創建譚と、きわめて類似しています。

そこで、独立した項目にはなっていないが、ほかにも「法城寺」に関する記述がないか、JK版「日本歴史地名大系」で調べてみました。全文検索で「法城寺」と入力すると、35件がヒットします。このうち、地名など寺院以外の法城寺や重複記述を除くと、寺院「法城寺」の記述は次表の12件でした。

「法城寺」の記述が
ある項目名
発刊時の
所属自治体
現在の所属自治体寺の創建譚と
治水との関連
近隣を流れる
河川
井目戸(いもっぺ)北海道鵡川(むかわ)むかわ町記載なし 
結城寺(ゆうきじ)茨城県結城(ゆうき) 記載あり鬼怒(きぬ)
的場(まとば)埼玉県川越(かわごえ) 記載なし入間(いるま)川・小畔(こあぜ)
北八代(きたやつしろ)山梨県八代(やつしろ)笛吹(ふえふき)記載なし 
吉津(よしづ)静岡県静岡市 記載なし藁科(わらしな)
安食(あんじき)(みなみ)滋賀県豊郷(とよさと) 記載なし 
高宮(たかみや)大阪府寝屋川(ねやがわ) 記載なし 
鍛冶屋(かじや)兵庫県出石(いずし)豊岡(とよおか)記載なし出石川・奥山(おくやま)
博労(ばくろう)鳥取県米子(よなご) 記載なし 
岡田上(おかだかみ)香川県綾歌(あやうた)丸亀(まるがめ)記載なし大窪谷(おおくぼだに)
川津(かわつ)香川県坂出(さかいで) 記載なし大束(だいそく)
佐川(さかわ)高知県佐川(さかわ) 記載なし春日(かすが)

創建譚に治水事業が関連する「法城寺」は、茨城県結城市の「結城寺跡」の項目で言及される「法城寺」のみでした。結城市上山川(かみやまかわ)にその寺跡を残す結城寺の創建由来は、JK版「日本歴史地名大系」によると、次のようです。

結城寺は、鬼怒(きぬ)川の水害から免れようとした在地の有力者が、下野国薬師寺の創建者と伝えられる祚蓮を招いて鬼怒川堤防上に壇を設け、薬師如来を安置し、悪竜に戒を授け、一寺を建立して大金剛宝(だいこんごうほう)寺と称したのが始まりと伝えます。この結城寺は、「将門記」にみえる「結城郡法城寺」に比定されていて、結城寺の旧称は「法城寺」であった可能性があり、法城寺(結城寺)の創建と治水事業の関連が伺えます。

この結城市にかつて所在した「法城寺」以外、残る11件の「法城寺」では、創建と治水事業がかかわったという記載は確認できません。しかし、11ヶ寺のうち幾つかの寺は、川の近隣に建立されていました。川越市の法城寺は入間(いるま)川と小畔(こあぜ)川に挟まれた地に、静岡市の法城寺は藁科(わらしな)川に接して、出石町の法城寺は出石川と奥山(おくやま)川の合流点に、綾歌町の法城寺は大窪谷(おおくぼだに)川水系の低地に、坂出市の法城寺は大束(だいそく)川とその支流が出合う地に、佐川町の法城寺は春日(かすが)川を望む地に、それぞれ所在しています。

確たる史料が残されていないかったためか、「日本歴史地名大系」では、これら川沿いに建てられた法城寺の来歴に、治水事業にまつわる記述を載せていません。しかし、これら「法城寺」のうちの幾つかは、流域の人々が、川の流れが穏やかであること、たとえ氾濫したとしても、その被害が軽微であること、できれば二度と氾濫を繰り返さないことを願って建立し、「水を去り、土と成す」ことへの期待を込めて「法城寺」と命名した可能性があるのではないでしょうか。

藁科川の川縁に建つ静岡市の法城寺

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