さっそく、前回の解答からはじめましょう。
Aの長野県
Bの京都府
Cの和歌山県
Dの島根県
Eの岡山県
Fの広島県
Gの愛媛県
Hの佐賀県
Iの佐賀県
じつは、これらの答えはJK版「日本歴史地名大系」で該当地区の項目をご覧になれば、ほぼ判明します。
ただし、酒造業で栄えた佐賀県鹿島市の浜中町八本木宿地区の場合、酒造業の蔵元は江戸時代には、それこそ全国津々浦々に所在していましたので、「日本歴史地名大系」の該当項目には特段の記述はありません。また、選定地区名は現在の地名(町名・広域地区名など)を基準にしていますので、江戸時代の村名・町名が項目名の基本である「日本歴史地名大系」で、該当項目にたどり着くには一工夫が必要かもしれません。
ちなみに、JK版「日本歴史地名大系」で「伝統的建造物群保存地区」と入力して全文検索を行うと、35件がヒットします。全選定件数の87件に比べると、ずいぶん少ないのですが、これは書籍刊行後に保存地区に選定されたケースも多くみられるためです。
試しに平成21年(2009)6月に重要伝統的建造物群保存地区に選定された愛媛県
『宇和盆地南部、宇和川沿いの街村。天保郷帳などの公簿には松葉町とあるが、普通卯之町といい、たびたび火災に遭ったため、江戸初期の慶安四年(一六五一)卯年に卯之町と改称されたと伝えられる。水辺に縁のある鵜の字にちなんだともいう(墅截)。「宇和旧記」によれば、戦国時代、
(中略)
天正一五年以降は城下町ではなくなり、宇和地方の商業・交通の中心町となった。同年から文禄三年まで続行された太閤検地のなかで、村として把握され、その後、江戸時代を通じて宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)には「松葉町村 茅山有、日損所、川有」と記される。
(中略)
町場は現在の卯之町東側の山根の通りの
(中略)
天保九年の「御巡見御尋之節御答書略」によると、松葉町全体の間数は「松葉町分道法、拾五町拾六間」であり、そのうち町場は「町長、御札場より町下迄五丁弐拾六間」である。松葉町のうちほぼ三分の二が農村で、三分の一が在町であったことがわかる。また馬四〇疋と記され、人馬の賃銭は「人足壱里四十五文、馬九十文」とあり、運輸業も行われていたことがうかがわれる。
現在、卯之町を中心とした地域は県の「宇和文化の里」に選定されている。宇和島街道沿いの文化元年(一八〇四)から明治初期に建てられた商家の家並は、白壁・格子戸・半蔀・などに昔日の面影を残す。幕末の蘭医二宮敬作の住居跡(天保四年―安政二年在住)では、師シーボルトの娘イネも学び産科医となった。脱獄して二宮を頼ってきた高野長英の隠れ家、二宮の設けた薬草園跡もある。また明治初期建築の
「松葉町」の項目自体に「重要伝統的建造物群保存地区」という記述は出現しませんが、古い建造物が多く残り、歴史的な景観が保たれているという様子は、充分にうかがい知ることができます。
JK版「日本歴史地名大系」を活用して、重要伝統的建造物群保存地区の歴史的な背景を探ってみると、新しい発見があるかもしれません。たとえば、鹿児島県には重要伝統的建造物群保存地区が
「麓」とは、鹿児島藩の領内行政単位である外城(=とじょう。延享元年以降は113の外城があり、天明4年に「郷」と改称)の中心地に置かれた在郷家臣団(衆中)の集住地区をいいます。地方行政と軍防を一体的に行う目的で設置され、御仮屋(地頭仮屋)をはじめとする各種政庁があり、整然と区画された屋敷割によって小城下町的景観を保持していました(「鹿児島県の地名」月報より)。
JK版「日本歴史地名大系」の個別検索で、検索対象地域を鹿児島県に絞り、「麓」と入力して、見出し・部分一致で検索すると8件がヒットし、出水と知覧の「麓」関連項目も含まれています(入来麓については「入来郷(薩摩郡:入来町)」の項目で記述されています)。「麓」でヒットした8件のうちには
重要伝統的建造物群保存地区のなかには、先述した秋田県仙北市角館や長野県南木曽町妻籠宿をはじめ、函館元町(北海道)、小江戸川越(埼玉県)、合掌造りの五箇山(富山県)や白川郷(岐阜県)、倉敷市の倉敷川畔(岡山県)、長崎市の南山手・東山手(長崎県)など、すでに一大観光地になっている所も数多くあります。
しかし、長野県白馬村
みなさんも、今後ゆったりとした旅程がとれる機会にめぐまれたら、観光地としては脚光を浴びていない「重要伝統的建造物群保存地区」を訪れることを検討してはいかがですか。もちろん、出発の前に、JK版「日本歴史地名大系」で該当する地域の歴史的な背景をチェックすることもお忘れなく。
(この稿終わり)