日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第73回 「中」は真ん中にあるのか?(2)

2014年06月20日

前回の掲載は2013年3月8日付でしたので、約1年3か月ぶりの更新となります。

前回は、現在の政令指定都市において、中区(中央区)や東区、西区、南区、北区といった位置を表わす区名が多く用いられているのは、「名は体を表している」という点では正しいが、(個性が感じられないから)できるだけ使用は避けてもらいたい、と希望を述べました。

一方で、古代においても中郡(表記は那珂郡・那賀郡など)という郡名は多くあり、しかし、この場合、必ずしも所属する国の真ん中に位置しているわけではない=名が体を表しているわけではない・・・・・・そのあたりの事情を探ってみましょう、というところで話は終わりました。

そのなかで、那珂郡あるいは那賀郡が存在する国として、常陸国、武蔵国、讃岐国、筑前国、日向国(以上、那珂郡)、伊豆国、紀伊国、石見国、阿波国、(以上、那賀郡)の9か国を挙げましたが(郡名の表記は、元和古活字本『倭名類聚鈔』によった)、じつは、紀伊国の那賀郡の訓みは「なが」。郡内の古代豪族には「長」氏もいますから、真ん中の「中」に通じる那賀郡ではありませんでした。お詫びして訂正いたします。

この紀伊国を省けば、真ん中に通じる那珂郡・那賀郡は8か国ということになります。うち、所属する国の真ん中に位置していると判定できるのは伊豆国那賀郡(戦国期以降に誕生した君沢郡のことは考えない)と石見国那賀郡の2郡のみ。真ん中に近い常陸国那珂郡を加えても3郡で、残る5国の那珂郡・那賀郡は国の真ん中に位置することが郡名の起こり、とはいえないようです。

ところで、8か国のうち伊豆国、常陸国、武蔵国、筑前国の4か国の那珂郡・那賀郡には、それぞれ郡内に郡名と同じ表記の那珂郷・那賀郷があります。郷名(より小さい地名)と郡名(より大きな地名)が同じ場合、どちらの地名が先に誕生したかといえば、一般には郷名が先と見られています。これは郡名(より小さい地名)と国名(より大きな地名)が同一の場合でも当てはまります。

たとえば、加賀国は弘仁14年(823)に越前国のうち江沼えぬま郡・加賀郡の2郡を割いて立国しています。もちろん加賀郡の郡名をとって国名にしたもので、同様に安芸国の国名のもととなった地域は、律令時代に「安芸郡安芸郷」とよばれていた地であり、より小さな地名として先に誕生していました。

所属する国の真ん中に位置する郡として、先に伊豆国那賀郡、石見国那珂郡に常陸国那珂郡を加えてあげました。しかし、そのうち伊豆国那賀郡には那賀郷、常陸国那珂郡は那珂郷という郡名と同じ郷があります。つまり、伊豆と常陸の「ナカグン」は、より小さい地名(郷名)に由来した郡名である可能性が高いといえるでしょう。そうしますと、国の真ん中に位置することが郡名の由来である可能性が残されているのは石見国那賀郡だけ、といえそうです。

表題となった「『中』は真ん中にあるのか?」に対する回答でいえば、こと郡名に関する限り「真ん中にあるから『中』」と名付けられた、という由来をもつものはきわめてまれである、というのが結論といえるでしょう。

なお、東西南北でいえば、ジャパンナレッジの「詳細(個別)検索」で「日本歴史地名大系」を選択して「ひがしぐん」「にしぐん」「みなみぐん」「きたぐん」と入力し(前回述べたように、郡名表記は2字が一般的ですから、仮名で入力します)、「完全一致」の条件で検索すると、(変更地名を除いて)北海道の渡島おしま国「爾志郡」、大阪府の和泉国「南郡」、青森県の陸奥国「北郡」、千葉県の安房国「平北郡・北郡」、香川県の「木田郡」、愛媛県の「喜多郡」がヒットします(「ひがしぐん」の入力ではヒットせず)。

このうち、中世までに成立していたのは大阪府の和泉国「南郡」、千葉県の安房国「平北郡・北郡」、愛媛県の(伊予国)「喜多郡」の3郡。これら3郡の成立経緯をみますと、和泉国の南郡は(和泉国)和泉郡の南部を割いて成立した郡で、泉南郡ともよばれます。安房国の「平北郡・北郡」はそれまでの(安房国)平群へぐり郡を再編制して、北部を「平北郡・北郡」にまとめまた郡で、伊予国喜多郡は、それまでの(伊予国)宇和郡の北部を分割して誕生した郡です。

こうしてみますと、(「東」はありませんが)東・西・南・北の名称は、あくまで「郡」(小さい地名)を基準に位置関係を表しただけで、「国」(大きい地名)を基準としたわけではないことがわかります。

大きく全体を俯瞰して、その位置関係から地名を付けるという考え方は近代的な名付け方です。極めて小さい地形の特徴から生まれた地名が、やがて周辺を含む一帯を代表する地名として用いられることによってより大きな地域を指す地名に変化する、というのが地名変遷のかつての一般的なあり方でした。

たとえば、諸説はありますが「ヤマト」という地名は「山門」であり、山(吉野山)の出入口にあたる、現在の奈良盆地南部の明日香村や橿原市付近にあった極めて小さな地名から始まり、やがて奈良盆地全体に広がり、吉野地方も加えて「大和国(倭国)」となり、さらに北端部を除いた本州から四国・九州をも含む地域全体の呼称となった、という考え方は一つの有力な考え方で、筆者も賛同するところです。

小地名がさまざまな歴史的経緯を背景として大地名に変身するという、地名成長の王道から逸脱した地名=政令都市の中(中央)区・東区・西区・南区・北区の5点セット地名、四国中央市に代表されるような平成大合併で誕生したモダン新市町村名=の乱立を、筆者は人一倍苦々しく思っていました。

しかし、考えてみれば、歴史的な背景が感じられ、ぜひとも後世に伝えたい地名の代表ともいえるような、古代の条里由来の地名、中世の荘園に由来する地名、近世の新田地名なども、誕生した当時の視点でみれば、より昔の地名の付け方からは逸脱しています。

現代でいえば、耕地に不向きで開発から取り残された丘陵地や原野が、今になって宅地開発の対象となって誕生した「○○丘」「○○岡」「○○台」「○○野」といった地名(筆者が苦々しく思う地名の代表的存在)も、100年200年先になってみれば、高度成長や乱開発といった時代の背景をよく表わした「歴史地名」と評価されるようになるかもしれません。

愛媛県喜多郡内子町。愛媛県の中ほどに位置しますが、かつての宇和郡の北(喜多)にあたります。