日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第155回 近江の鏡山(2)

2019年06月07日

先回は、近江の鏡山の周辺一帯に苗村なえむら神社(竜王町)西本殿、善水ぜんすい寺(湖南市)本堂、御上みかみ神社(野洲市)本殿、大笹原おおささはら神社(野洲市)本殿、野洲川を挟んで少し離れたところに常楽寺(湖南市)の本堂と三重塔、長寿寺(湖南市)の本堂、と計6件7棟の国宝建造物が残されている、と記しました。

周辺一帯に多くの国宝建造物が残る近江の鏡山

そして、「近江の鏡山周辺に何故これだけ多くの文化財建造物が残されたのか? その理由の一片を考察したいと思います」という文言で話を終えました。

そこで、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」で、鏡山の東麓平野部に位置し、徳治3年(1308 )修造・建立の三間社流造・檜皮葺の西本殿が国宝に指定されている「苗村神社」の項目をみると、次のような記述がみえます。

徳治三年(一三〇八)の西本殿修造棟札(社蔵)によれば、建保五年(一二一七)修造時の神主は佐々木筑前四郎太郎義綱、同下神主は佐々木六郎禅師で、この両佐々木氏は古代蒲生郡大領佐々貴山公の末裔とされる。また徳治三年修造時には「岩王御前並村人」が願主となっており、すでに中世の惣村を担ったムラント層の台頭が知られる。

徳治3年に堂宇(国宝・西本殿)修造の主体となったのは、「中世の惣村を担ったムラント層」であったことがわかります。「ムラント」は聞き慣れない言葉ですが、「ムロト」ともいい、漢字で書けば「村人」です。

また、「惣村」とは「村落。特に惣結合によって古老を中心に自治的な運営がなされた中世の村落」(ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」)、「鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて主として畿内およびその周辺地域においてみられた自治的村落」(ジャパンナレッジ「国史大辞典」)のことをいいます。

さらに、「惣村」の「惣」の字について「日本国語大辞典」の「そう【総・綜・惣】」は次のように記します。

(惣)南北朝以後、農民が村落共通の利益を守るために名主層から選ばれた乙名(長)・年寄を中心として結合した村落共同体。寄合をひらき、村の掟をつくり、入会地や灌漑用水の管理、村の自衛、犯罪の防止などを行ない、違反者には制裁を加えた。近世には、幕府や大名による農民統制の組織へと変質した。惣村。

繰り返しとなりますが、「惣村」とは「惣結合によって古老を中心に自治的な運営がなされた」「畿内およびその周辺地域においてみられた自治的村落」であり、乙名・年寄とよばれた村人(ムラント)たちを中心に構成されていました。

西本殿が国宝に指定される苗村神社。鏡山の東麓に位置する

近江国は「惣村」が発達した地域で、「日本歴史地名大系」(滋賀県の地名)の「近江国」項目の「中世」では、次のように記します。

〔惣の展開〕一三世紀以降、畿内近国などでは地下と称する村落にしばしば惣という組織が結成された。庄園公領制が解体するにつれ、在地において領主権単位の村落から自律的な新しい村落が形成されたことを意味している。中世後期に特徴的に現れる村落は研究史上は「惣村」とよばれる。とりわけ近江は惣村が典型的に発展した地域とされ、中世後期には多数の惣が存立をみた。

ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、キーワード欄に「惣村」と入力して全文検索をかけますと200件がヒットします。

地域別にみると、近畿が63件でトップ、次いで関東の53件、以下、中部38件、北海道・東北19件、中国8件、四国8件、九州・沖縄5件となっています。県別では埼玉県が31件でトップ、次いで滋賀県が27件、以下、大阪府17件、石川県14件、京都府と茨城県が9件となっています。

ただし、埼玉県の場合は「享保10年(1725)鷹場惣村石高控帳(会田家文書)」、石川県の場合は「天保4年(1833)石川郡惣村数書上(大鋸文書)」という近世の史料名称の一部分がヒットしたのがほとんどで、中世の惣村に絞れば滋賀県がトップ、地域的にも畿内に集中していることが確認できます。

ところで、滋賀県(近江国)は奈良県、京都府に次いで国宝建造物が多いところとしても知られています。ただし、今まで述べてきた鏡山周辺に集まる建造物を除くと、延暦寺、園城おんじょう寺(三井寺)、日吉ひよし大社、彦根城など、(もちろん奈良や京都も同様なのですが)時の権力者や地元有力者(近江でいえば佐々木氏、のちに京極氏、六角氏など)によって建立された建造物がほとんどです。

一方で、苗村神社、善水寺、御上神社、大笹原神社ほか鏡山周辺に残された国宝建造物は、「日本歴史地名大系」の記述をみるかぎり、建立に当たって時の権力者や地元の有力者が関係した事実はなく、堂宇建立の中核となったのは、惣村を担った「ムラント」たちであったと推測されます。つまり、現在、国宝に指定されるような壮麗な建造物は、その多くが「ムラント」たちの主導で建立されたと考えられるのです。

10年以上前のことですが、関東在住者のグループで、鏡山の北東方に広がる湖東地域を旅したことがあります。その日は、近江守護六角氏の観音寺城が営まれた繖山きぬがさやま(観音寺山ともいいます)に登り、東近江市五個荘ごかしょう 金堂町こんどうちょう地区(重要伝統的建造物群保存地区)で昼食をとる予定でした。

西麓の安土町あづちちょう(近江八幡市)側から山に入り、室町幕府第12代将軍足利義晴が享禄4年(1531)から3年間滞在した桑実くわのみ寺(国指定重要文化財の「桑実寺縁起」は足利義晴の寄進による)を訪れ、観音寺城跡(国指定史跡)の石垣などを眺めながらさらに登り、観音正かんのんしょう寺(西国三十三所第32番札所)に参詣して繖山を下りました。

重要伝統的建造物群保存地区に選定される金堂町地区

山を下ったところに、昼食を予約していた料理店のご主人がマイクロバスで迎えに来てくれました。バスが金堂地区に入ると直ぐに、葺き替えたばかりの屋根が銀色に輝く大きな寺(真宗寺院)が目に入りました。

「あの屋根の葺き替えいくらかかったと思います?」と、ご主人は聞いてきました。皆は口々に、2千万だ、3千万だ、いや5千万だと言います。筆者は得意気なご主人の様子を見て、思いきって「1億円」と声をかけました。すると、ご主人は間髪を入れず「2億円」と答え、得意満面の笑みを浮かべました。

一行は、「さすが近江商人」「門徒の紐帯は強いな」などと言葉を返しながら、大いに驚嘆したことを思い出しました。

金堂地区は江戸から明治にかけて、近江商人を輩出した地域であることは事実ですし、「近江門徒」とよばれるように滋賀県は真宗の信仰が厚い地域であるのも事実です。しかし、今になって考えてみると、このエピソードは、「ムラント」の末裔たちの底力を表わしたものではなかったか、と思い至る次第です。

(この稿終わり)