前回は、江戸時代の都市において、都市内の町名(ただし、近代に入って旧武家地に付けられた町名も含めて)に出羽・尾張・加賀・長門・阿波・豊後といった六十余州の国名を用いた町はどのくらいあるのか、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の詳細(個別)検索機能を活用して検証しました。
その結果、たとえば、大坂三郷の備後町と備後町一丁目~六丁目や江戸城下の四谷伊賀町・四谷北伊賀町・四谷南伊賀町など、同一都市にある複数の同一国名の町は、これらをあわせて1件と数えると、約130件がヒット。(江戸時代の)都市別でいえば、大坂三郷に24か国の国名を用いた町名があってトップ、次いで18か国の京都、17か国の江戸城下、10か国の金沢城下と続き、全国で約50の都市に「国名を冠した町」が存在したことがわかりました。
ただし、その町名由来は、蒲生飛騨守氏郷に由来する飛騨殿町(京都)、永井信濃守尚政に由来する信濃町(四谷東信濃町・千駄ヶ谷西信濃町、江戸城下)、加賀前田家の家臣岡島備中一吉に由来する備中町(金沢城下)など、屋敷を構えていた武家の受領名に由来する町名が多く、その国の出身者が多く住んでいるからとか、その国の物産を扱っていたからといったような、実際にその国に所縁のある町名は、意外に少ないということも判明しました。
和歌山城下の駿河町は、駿河国出身の商人が居住していたことが町名の由来という。
今回は、どの国名がもっとも多くの都市で町名に採用されていたかについて記します。
第1位は伊勢で15都市に存在していました。第2位は和泉で9都市、以下大和・伊賀が5都市、尾張・駿河・信濃・越前・越中・加賀・備前・豊後は4都市、河内・近江・美濃・播磨・丹波・長門・出雲・讃岐が3都市、山城・甲斐・越後・佐渡・備後・丹後・因幡・紀伊・淡路・筑後・肥後が2都市と続き、摂津・三河・安房・常陸・飛騨・上野・出羽・能登・備中・周防・石見・阿波・土佐・伊予・肥前・日向・大隅・対馬は1都市のみにありました。一方、若狭・志摩・武蔵など19か国(島)は、その国名を冠した町名が存在しませんでした。
15都市の伊勢と9都市の和泉が他を引き離しています。和泉の場合、出羽本荘城下、江戸城下、信濃松本城下、尾張名古屋城下、近江大津町、京都、大坂三郷、播磨姫路城下、薩摩鹿児島城下の9都市に和泉町(鹿児島城下の「和泉屋町」なども「国名を冠した江戸時代の町」という条件を満たしていると考えてカウント)が存在しました。
しかし、たとえば信濃松本城下の和泉町が「町名の起りは、この地帯に湧水が多いことによる。
9都市にある和泉町という町名には、「湧水の泉」に由来する町名も幾つか含まれていますから、その分を少し割り引くと、15都市の伊勢は突出した1位ということになります。
「伊勢」といえば、まず「伊勢商人」を思い浮かべる方は多いと思います。伊勢商人は近江商人とともに中世以降その活動を全国に広げました。しかし、「近江町」はわずか3都市(出羽亀ヶ崎城下・加賀金沢城下・大坂三郷)でしか確認できませんから、「伊勢町」との差は歴然としています。
そこで検証のために「日本歴史地名大系」でヒットした15都市の「伊勢町」を列記し、町名由来の記述があれば、その記述も併記しました。
上野中之条町の伊勢町=古代の
江戸城下の伊勢町(現中央区)=由来記述なし
越後高田城下の伊勢町=高田開府の際の町奉行の一人伊勢守某の竿入に由来するという伝えがある
越中
信濃松本城下の伊勢町=神明宮の小社があり、これにより伊勢町の名が生じた
信濃松代城下の伊勢町=由来記述なし
信濃飯山城下の伊勢町=神明社の門前を中心としてできた町で、神明町ともいう
尾張名古屋城下の伊勢町=
近江大津町の伊勢屋町=由来記述なし
近江
京都の伊勢屋町(現上京区)=由来記述なし
京都の
京都の北伊勢屋町・南伊勢屋町(現上京区)=由来記述なし
京都の伊勢屋町(現中京区)=「坊目誌」は「天正の頃、此町に伊勢屋昌順と云ふものあり、豊公偶々其家を過ぎ、字号を町名とすることを許せりと」としている
大坂三郷の玉造西伊勢町(現中央区)=由来記述なし
大坂三郷の伊勢町(現北区)=由来記述なし
摂津伊丹郷町の伊勢町=由来記述なし
肥前佐賀城下の伊勢屋町=伊勢太神宮の門前に東西に延びる
肥前長崎町の伊勢町=町名は寛永年間に再興された伊勢宮に由来する
長崎町(現長崎市)の伊勢町は、地内の伊勢宮が町名の由来という。
伊勢国出身者(伊勢商人)が集まり住んでいたことに由来する伊勢町や武家の受領名に由来する伊勢町も確認できますが、とりわけ目に付くのは、神明宮(神明社)・伊勢宮(伊勢太神宮)に由来する伊勢町です。
神明宮・伊勢宮はもちろん伊勢神宮の分霊を勧請した神社で、ジャパンナレッジ「国史大辞典」の【
伊勢の御師は鎌倉時代末期以降は特に活発に活動し、室町時代には領主を通じて領内の農民を檀那とするようになった。なお伊勢の御師は、熊野の場合と違って檀那との間に先達を介在させることなく、御師みずからが檀那の処に赴いて参詣をすすめ祓・大麻を配布するなどした。この結果、師檀関係はより密接なものとなった。すなわち地方の檀那は御師の廻檀に対して伝馬や宿舎を提供したり、関税を免除するなどして歓待した。一方御師は、祓・大麻のほかに扇・帯・茶・白粉などを土産物として檀那に提供し、貨幣や米などを受けとった。もっともこうしたことからのちには御師が次第に行商人的性格を持つようになった。
伊勢町が全国に広く分布すること、そして各地の伊勢町の町名由来に神明宮や伊勢宮が関連している場合が多いことは先に確認しましたが、これらの背景に「伊勢の御師」の活動を見て取るのは筆者ばかりではないと思います。
(この稿終わり)