鳥獣の狩猟場のことを「狩場」(かりば)とか「狩倉」(かりくら)といいます。「狩場」は「狩庭」、「狩倉」は「狩蔵」などとも記し、また「狩倉」は「かくら」ともよんで、この場合は「鹿倉」とも記されます。
ジャパンナレッジ「国史大辞典」は【
中世における在地領主の狩猟ならびに騎射などの軍事訓練の場として、一般の立入禁止を行なった山野のこと。狩蔵とも記し、近世では鹿倉山(かくらやま)ともいった。平安時代では荘園領主の所領内の狩猟場を狩庭(かりば)・鷹栖山(たかすやま)などと称し、一定の社会的分業の場としての役割をもっていたが、武士の発生とともに、その担い手たる在地領主層の所領開発と支配の拡大の中で、公領・荘園の山野を狩庭として独占し、狩猟を業とする住民を戦闘要員の一部に編成し、狩庭を同時に恒常的な軍事訓練の場とした。(中略)近世においては、はじめは幕府領・藩領のいずれにおいても、一般の狩猟を禁じて、将軍・藩主以下の軍事訓練をかねた狩猟のために、狩倉あるいは鹿倉山が設定された。しかし時代が降るにつれて、武士の狩猟がすたれ、軍事訓練も形式化してゆき、狩倉も単なる立林・立野(保護林野)化した。
ここで、ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択、「狩場村」「狩庭村」「狩倉村」「狩蔵村」「鹿倉村」(「日本歴史地名大系」の基本単位は、現在の大字・町名に相当する近世の村と町。狩猟は村方と考えて「村」を加えました)のそれぞれを入力、見出し・部分一致で検索をかけますと、ヒット件数は以下のようになります。
狩場村=2件
狩庭村=0件
狩倉村=1件
狩蔵村=0件
鹿倉村=6件
この合わせて9件のヒット項目についてながめてみますと、いずれの村落も山間や丘陵部にあって、いかにも狩猟場にふさわしい立地条件を備えていることがわかります。なかには、産土神が
村落の名称が狩猟とかかわり深いものであっても、実際に狩猟が行われていたかどうかは別である、ということなのでしょうか。
そこで、次のような実験を行ってみました。まず、はじめに「村」を見出し・後方一致で入力(これによって、「日本歴史地名大系」の基本単位のひとつである近世村落は、ほぼ選び出せます)、さらに、検索範囲を全文にして「狩場」「狩庭」「狩倉」「狩蔵」「鹿倉」のそれぞれに「狩猟」という言葉を加えてAND検索をしました。つまり、「村」(見出し・後方一致)+「狩場」(全文一致)+「狩猟」(全文一致)という具合に検索をかけてみたのです。ヒット件数は以下のとおりです。
「狩場」+「狩猟」=2件
「狩庭」+「狩猟」=2件
「狩倉」+「狩猟」=5件
「狩蔵」+「狩猟」=0件
「鹿倉」+「狩猟」=2件
総ヒット件数は11件ですが、なかには重複項目もあって、総数は先に行った「狩場村」「狩庭村」「狩倉村」「狩蔵村」「鹿倉村」(見出し・部分一致)の検索結果と似たような数字です。
ただし、今回ヒットした各項を読みますと、(江戸期以降も)狩猟が行われていた村(福島県
江戸時代、春山村(現鹿児島市)内には、鹿児島藩の狩倉(狩猟場)が設定されていた
江戸時代に狩猟活動が重要な生業の一つと位置付けられていた村は数多くあります。ちなみに「日本歴史地名大系」で、主に東北地方の猟師の呼称である「マタギ」と入力して、全文検索をかけますと、全国で32件がヒットします(うち東北地方は23件)。けっして少ない数字ではないと思います。
こうした検索結果をまとめてみると、江戸時代に「狩場村」「狩倉村」「鹿倉村」といった、領主の狩猟場に由来すると思われる名称を有する村落では、狩猟が生業となっていることはなく、一方で、「狩場」「狩庭」「狩倉」「鹿倉」といった地名が、見出し検索ではヒットせず、全文検索でヒットするような、一村より小規模な地名(現在でいえば字・小字に相当)で残されている村落の場合は、狩猟が村落の重要な生業の一部であったケースが多くみられる、といえるのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、江戸時代、東北地方を中心にマタギ集落が数多く存在していたように、狩猟活動が村落維持の重要な生業として、他の生業と共存しながら営まれていた地は多々ありました(だから、字・小字として狩猟関連地名が残されている)。
しかし、村名に採用されるような大規模で、一村まるごとが狩猟場であった、といったような地域は、もともと「中世における在地領主の狩猟ならびに騎射などの軍事訓練の場」(前掲「国史大辞典」)であったのではないでしょうか。しかし、その地が開発されて村落が形成されたとき、新しい住民たちが狩猟を生業の中心にすることはなかったと考えられます(だから、狩猟関連の記述がみられない)。
では、この開発はいつごろから進められたのか? ヒットした「狩場村」「狩倉村」「鹿倉村」には、領主の狩猟場であったという伝承も記録もいっさい残されていませんので、かなり早い時期に開発されたものと思われます。あるいは、中世の黎明期、平安時代までさかのぼる可能性も残しておきたいと思います。
(この稿終わり)