先回は、「三大修験道場」という言葉を足掛かりに、羽黒社(権現・神社)の「偏在」について考察、旧肥前国松浦郡域の偏在と、同地域を本拠とした松浦党の安倍宗任始祖伝承との関連について言及しました。
ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の全文検索機能を活用した「偏在」探しの旅を続けます。今回は、諏訪社(諏訪神社・諏訪宮)の「偏在」から。
全国に鎮座する諏訪社のほとんどは、信濃国(長野県)の一宮・諏訪大社の分霊を勧請した神社。ジャパンナレッジ「世界大百科事典」は【諏訪大社】について次のように記します。
長野県に鎮座する古社。上社(かみしや),下社(しもしや)に分かれ,上社本宮は諏訪市中洲,上社前宮は茅野市宮川,下社春宮と下社秋宮は諏訪郡下諏訪町に鎮座。建御名方(たけみなかた)神,八坂刀売(やさかとめ)神をまつる。建御名方神は,またの名を建御名方富命,南方刀美神といい,《古事記》によると大国主神の子。天孫降臨に先立ち,大国主神に国土献上を問われたとき,その子事代主(ことしろぬし)神はすぐ承知したのに対し,建御名方神は反抗,追われて信濃国諏訪まで逃げたとあるが,古くよりこの地方の開発に当たった神として信仰される。八坂刀売神はその妃神という。(後略)
祭神の建御名方神は大国主命の子ですから、諏訪社は巷間、出雲系の神社といわれています。ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」の【諏訪信仰】の項目には、
長野県の諏訪大社を中心とする信仰。もとは地域的な信仰であったが、狩猟の神として狩人の信仰を集め、中世には武神として、また農民や漁民にも信仰されて広く分布している。
とあって、狩猟神・武神・農業神・漁業神などの多面性を有し、幅広い層から信仰を集めていたことがうかがえます。
信濃国一宮「諏訪大社」下社・秋宮
また、ジャパンナレッジ「世界大百科事典」の【諏訪信仰】の項目には次のような記述がみえます。
(前略)古代には湖水の竜神あるいは霊蛇の信仰であったと考えられているが,そのなごりは民話や語りもの(甲賀三郎説話など),あるいは雨乞いの習俗などにうかがうことができ,諏訪明神が姿をあらわす場合に巨大な蛇体という形をとることは中世の《諏方大明神画詞》にもみえている。しかし,鎌倉時代にこれを氏神と仰ぐ諏訪氏が武士団を形成し,武家社会一般の間に軍神としての諏訪信仰が成立した。ことに坂上田村麻呂をみちびいて蝦夷(えぞ)を平定したという信仰は,さきの《諏方大明神画詞》にもみえている。これに伴って,関東・奥羽の豪族には諏訪神社をその領地に勧請するものが多く,東北地方や九州などには鎌倉御家人がまつりはじめた諏訪社が少なくない。なかには本社と同じく薙鎌(なぎがま)を神器とするところもある。(後略)
農業神としての性格は、竜神=雨乞い=水神=田の神といった流れから生まれたものかもしれません。さて、諏訪社の偏在です。今回は「諏訪社」「諏訪神社」「諏訪宮」の三つのキーワードを入力、それぞれ「または(OR)」でつないで全文検索をかけてみました。
ヒット件数は2748件。地方別では次のようになりました。
北海道・東北=285件
関東=517件
中部=1470件
近畿=114件
中国=62件
四国=49件
九州・沖縄=251件
諏訪大社のお膝元である中部地方が突出していることは納得できます。また、隣接する関東や東北・北海道がこれに続いていることも理解できます。ただし、近畿・中国・四国を飛び越えた九州・沖縄が251件と、東北・北海道の285件に負けないくらいの数値であることが気になります。
次に県別で、ヒット数100件以上をあげると以下のようになります。
新潟県=471件
長野県=452件
富山県=160件
山梨県=129件
群馬=129件
福島県=120件
埼玉県=119件
鹿児島県=102件
千葉県=100件
新潟県が本家本元の長野県より多いのは、新潟県の総項目数(5962)が長野県のそれ(3894)の1.5倍以上であることが関係していると思います。そのことを除けば、諏訪大社との距離が近い地域に多い傾向がみてとれますが、問題は鹿児島県の102件です。この数値が九州・沖縄を押し上げた要因となりました。
鹿児島県の諏訪信仰の中心は鹿児島市の
江戸時代までは「諏訪大明神(「諏方」とも記した)」と称していましたが、明治時代に南方神社(改称名は主祭神である「
島津氏勧請と伝える鹿児島市の南方神社(旧諏訪<諏方>大明神社)
勧請の端緒について「島津氏初代惟宗忠久が奥州合戦に出陣の折、信州諏訪社に戦勝祈願をし、戦勝後信濃国に
あるいは、忠久が戦勝祈願をした前掲の「信州諏訪社」とは、諏訪湖畔の「諏訪大社」ではなく、塩田平に鎮座していた「諏訪社」であったかもしれません。
今回は、諏訪社の偏在から前出の「東北地方や九州などには鎌倉御家人がまつりはじめた諏訪社が少なくない」という記述の実例を垣間見ることができたと同時に、のちに南九州に覇をとなえる島津家も、鎌倉御家人から身を起こしたことを別の角度から再確認できたのではないでしょうか。
次回は「偏在」シリーズの最終回、「大山祇の偏在」についてお届けします。
(この稿続く)