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第95回 あづまはや(3)

2015年05月01日

先回、ヤマトタケルは「古事記」において「足柄坂」(足柄峠)以東に位置する、のちの東海道所属の国々(坂東=相模・安房・下総・上総・常陸)を「阿豆麻」と名付け、これに対して、「日本書記」では「碓日嶺」(碓氷峠)以東にあたる、のちの東山道所属の国々(山東=上野・下野・武蔵・陸奥・出羽)を「吾嬬国」と名付けたことを確認しました。

のちのち、この「坂東」と「山東」をあわせた10か国から、奥羽の2か国を引いた8か国を称して、「坂東八箇国」とか「関八州」という呼び方が定着して行きます。

ジャパンナレッジ「国史大辞典」の【東国とうごく】の項目は、このあたりのことを含め、次のようにまとめています。

東山道および東海道諸国(時には北陸道を含む)の地域のことで、その範囲は時代や用法によって広狭がある。「あずまのくに」とも訓む。
〔古代〕
畿内を中心として東海・東山・北陸三道の東国と西国を分ける区分と、坂東八ヵ国=東国とする区分との二種類があった。
(一)『古事記』には「東国造(あずまのくにのみやつこ)」とあり、「坂」(足柄坂)以東が「東国」とされている。『常陸国風土記』にも相模国の「足柄岳坂」以東の地域が「我姫(あずま)国」であると記している。また『日本書紀』景行紀は日本武尊の伝説の記述に関連して、「碓日(うすい)坂」の東南を「山東諸国」「吾嬬(あずま)国」と称している。この用法は『令義解』公式令(くしきりょう)朝集使条の、朝集使が駅馬を乗用しうる国の範囲の規定に「東海道は坂東(駿河と相摸との界の坂を謂ふなり)、東山道は山東(信濃と上野との界の山を謂ふなり)」(原漢文)とみえる表現に該当し、坂東(ばんどう)と山東(さんとう)を合わせて東国といい、その境界を相模の足柄山、信濃の碓氷(うすい)峠に求めている。この国々は、東山道の陸奥・出羽を除外し山東も坂東に含めて坂東八ヵ国(上野・下野・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸)という狭義の東国となる。これに、陸奥・出羽を含める場合もある。
(二)一方、伊勢国の鈴鹿関、美濃国不破関以東、この関の停廃後には近江国の逢坂(おうさか)関以東を「関東」と呼称し、この東海道・東山道諸国を東国と称する用例も多くみられる。
(三)『万葉集』一四の東歌(あずまうた)所収の国の範囲は、東海道遠江国、東山道信濃国以東で、(一)と(二)の中間的な範囲を示している。
(〔中世〕以降は省略)

足柄以東と碓氷以東をあわせた関八州=東国

「坂東八箇国」「関八州」は、前掲(一)の狭義の「東国」にあたり、これが現在の関東地方1都6県に継承された、といえるでしょうか。なお、同じく「国史大辞典」の【西国さいごく】の項目は次のよう記します。

奈良・平安時代には都のある畿内地域から西方の諸国、すなわち現在の中国・四国・九州地方を総称して西国といったようであるが、未開の辺境で異質の地域と考えられていた東国と比較すると、西国という地域概念が用いられた例は目立って少ない。この時代の政治の中心地である畿内から見て、特に中国・四国・九州地方を異質の地域と認識することが少なかったせいであろう。しかし鎌倉時代に入ると、東の鎌倉に本拠をおいた鎌倉幕府の側からは、むしろ逆に西方地域が異質の地と見られるようになり、西国という地域概念が盛んに用いられるようになった。その概念は必ずしも厳密なものではないが、(一)畿内とその近国(中国・四国地方、および六波羅探題の管轄地域)、および九州地方、(二)畿内とその近国、(三)九州地方、など広狭三種ぐらいの意味で用いられ、特に(一)がもっとも基本的な語義であったと考えられている。しかし西国という用語は、使用者の居住地域や、その人の立場などによって種々の意味で用いられ、中世・近世を通じて西国を(三)の九州地方と同義とする用例も多い。

講談・映画の「忠臣蔵・南部坂雪の別れ」で、瑤泉ようぜん院に暇乞いに訪れた大石内蔵助が「西国のさる大名家に仕官がかない……」という場面があります。小さい頃の筆者は大石が云うところの「西国」とは、漠然と近畿地方以西である、と受け取っていました。しかし、九州地方に限定される可能性もありそうですね。

ところで、一般的な辞書類では、「東」の字音は「トウ」のみですが、訓は「ひがし」と「あずま」の二つをあげています。一方、「西」の字音は「サイ」と「セイ」の二つをあげますが、訓は「にし」の一つのみです。当然、「東国」には「とうごく」と「あずまのくに」という、二つの読みがあるのに対して、「西国」は「さいごく」の読み一つとういうことになります。

ヤマト王権にとって東方のフロンティアは、単に畿内の東方に位置する地ではなく、「あづま」と名付けねばならぬ、西方とは異なった意味合いを持つ地だったのでしょうか。だからこそ、「古事記」と「日本書紀」は趣は少し異なるものの、ともに「あづま」の命名説話を載せている、と解釈すればよいのでしょうか。

このあたりの事情について、碩学西郷信綱は「古事記註釈」(平凡社:1975-1989、ちくま学芸文庫:2005-2006)において、ヤマトタケルの足柄譚における「あづまと謂ふ」という文言に対して、次のような極めて示唆に富んだ注を記しています。

足柄以東をアヅマと呼ぶのはこれによるというのはもとより地名起源説話である。アヅマの語源はということになれば、別途に考えねばなるまい。アヅマを安曇アヅミ族の移動による名とする説もあるが、それならこの族の拠点である北九州をなぜそう呼ばぬのかという疑問が残る。
 語源説は悪くすると言語遊戯になりかねないので用心肝要なのだが、アヅマのアは接頭語で、本体はツマにあり、そしてそれはツマの意ではないかと思われる。動詞でいえばそれはツマルとかツム(詰む)とかの語と関連し、かくてアヅマは辺境という意ではなかろうか。(中略)
 古代におけるツマという語のこうした用法は、アヅマにもまたその対偶項が存したことを暗示する。むろん大和を座標としての話だが、一方の端がアヅマなら他方の端をなすのはサツマだという関係になるのではなかろうか。ヤマトタケルの物語で、クマソとエミシの征討のことがサツマとアヅマのこととして対応するかのように語られているのも、両者のこうした相関を暗示する。さきに宇宙的方位における東と西、大和と出雲の対立にふれたが、空間も同質ではなく、大和を中心とするヒエラーキーがそこに存したといっていい。

古代においても、畿内と東国・西国の相関関係は、時々刻々変化していたのでしょう。西郷氏の問題提起はけだし卓見ではなかろうか、と筆者は密かに共感する次第です。

(この稿終わり)