広島県福山市の市街西方を流れる
「芦田川」とみえるあたりを含んで周辺一帯の川床に草戸千軒町遺跡はある
近代に入り、昭和5年(1930)頃に芦田川の付け替え工事が行われた際に古銭や中国産陶磁器などの遺物が出土し、「備陽六郡志」に記された「草戸千軒」に関わる遺跡ではないかとの指摘がなされました。昭和31年には初めて学術調査が行われ、「草戸千軒町遺跡」として、学界にも広く知れわたります。昭和42年から本格的な発掘調査が継続的に実施され、その後、隆盛に向かう「中世考古学」に先鞭をつけた調査となりました。平成6年(1994)に発掘調査を終えた「草戸千軒町遺跡」の詳細については、下記のホームページをご参照ください。
⇒草戸千軒 よみがえる中世瀬戸内の港町
⇒広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)
「備陽六郡志」では、草戸千軒は江戸時代前期の寛文年中に流失したとされますが、発掘調査の結果、集落は13世紀の半ば頃(鎌倉時代)に成立、16世紀の初め頃(室町時代)に衰退し、市場町と港町の性格をあわせもっていたことが判明しました。現在では、室町時代を中心とした中世の集落遺跡で、海上交通(瀬戸内水運)、河川交通(芦田川舟運)、陸上交通(山陽道)の結節点にあたり、一帯の物流拠点であったと考えられています。
また、草戸の地名も同時代の史料では、当初は「草出」「草津」「草井地」「草出津」などと記され、15世紀の後半頃には「草土」と記すものも見え始めたことがわかります。
草戸千軒町が衰退したのは「16世紀の初め頃」と記しましたが、「備陽六郡志」が著された18世紀になると、草戸千軒町についての人々の記憶は、心の奥底に仕舞い込まれ、繰り返される芦田川の氾濫と交錯して、17世紀後半に町は流失したという物語が形成されたと推測されます。
かつて繁栄した集落(草戸千軒町のような交易集落・交通集落のほかにも鉱山集落・宗教集落等々)が、その衰退を迎えた後に、「△□千軒」とよばれて繁栄を後代に伝えられることは、各地でみられます。軒を連ねていた家屋が実際に千軒あったかはともかく、往時の殷賑振りが「千軒」の地名に込められています。
ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択し、「千軒」と入力して見出し検索(部分一致)をかけると、福山市の「草戸千軒町遺跡」を含めて5件がヒットします。北から順に眺めてみましょう。
まず、はじめは北海道
古くは千軒山(東遊雑記)のほか、仙見ヶ嶽(北海随筆)・泉源が嶽(ひろめかり)・浅見山(谷「蝦夷紀行」)、
繁栄した集落とは関係なく、浅間信仰に由来する山名と推測していますが、千軒岳では17世紀に実際に金山が稼業しており、そのあたりについては、
寛永五年(一六二八)千軒岳で新たに砂金の採掘が始まった。金山総司は蠣崎友広・同宗儀、金山小使は山尻孫兵衛・水間木工左衛門など、金師は仙台人喜介であった(市立函館図書館本「福山秘府」)。
と記されます。浅間信仰に由来する山名が正解なのでしょうが、繁栄した鉱山集落とまったく関連がない、というわけでもなさそうな気がします。
次は福島県会津若松市の「
地図の中央部付近を横切っていた道に沿い、かつては千軒の町家がひしめく
集落の性格は不明ですが、現在のJR会津若松駅の南東方に、かつて繁栄した街路が東西に通じていたことがわかります。
続いては奈良県吉野町の「
最後は岡山県
鹿久居島中央部にある港湾遺跡。千軒湾とよばれる小湾を囲んで形成された小都市で、古代末期から中世初期にかけて存在した。千軒湾は、奥泊の入江の東岸にあり、西向きに湾口を開いているため、泊地として良好な条件を備え、外部からは山に隠れて完全に遮蔽されている。出土する遺物は、多量の青磁・白磁を交えており、遺跡が特殊な貿易港の性格をもつことを示す。(中略)周辺は海人の小集落や、風待ちなどの避難港しかみられず、無人地帯の中に形成されていることから、政治権力の及ばない場所を選んで設けられた、法外の自由貿易港であったと推定されている。
どうやら秘密貿易の基地のようですが、草戸千軒町遺跡と同様に、交易都市として繁栄したことをうかがわせます。
「まほろば」と記されたところの北方にある湾入部に秘密貿易基地があった
以上が「見出し」検索でヒットした千軒地名の姿ですが、「かつては繁栄していたが、現在はさびれている」といった共通項が垣間見えるように思います(千軒岳の金山も江戸後期には稼業していなかったようです)。
ところで、「千軒」のキーワードで全文検索をかけると355件がヒットします。もちろん、すべてが「過ぎし日の繁栄を物語る」千軒地名ではありませんが、全文検索でヒットした「千軒」地名の周辺を次回は探ってみたいと思います。
(この稿続く)