日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第78回 過ぎし日の繁栄を物語る「千軒」地名(1)

2014年08月29日

広島県福山市の市街西方を流れる芦田あしだ川。草戸千軒町くさどせんげんちょう遺跡は、その芦田川河口付近にあります。「草戸千軒」の名は江戸時代中期に福山藩士が著した地誌「備陽六郡志」に「草戸千軒と云町有りける」と記されていたことに由来します。同書によれば、寛文13年(1673)の洪水で中州(中島)にあった草戸千軒は町ごと流失、その後、中州に民家が再建されなかったため、中洲は廃墟になったといいます。

「芦田川」とみえるあたりを含んで周辺一帯の川床に草戸千軒町遺跡はある

近代に入り、昭和5年(1930)頃に芦田川の付け替え工事が行われた際に古銭や中国産陶磁器などの遺物が出土し、「備陽六郡志」に記された「草戸千軒」に関わる遺跡ではないかとの指摘がなされました。昭和31年には初めて学術調査が行われ、「草戸千軒町遺跡」として、学界にも広く知れわたります。昭和42年から本格的な発掘調査が継続的に実施され、その後、隆盛に向かう「中世考古学」に先鞭をつけた調査となりました。平成6年(1994)に発掘調査を終えた「草戸千軒町遺跡」の詳細については、下記のホームページをご参照ください。

⇒草戸千軒 よみがえる中世瀬戸内の港町
⇒広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)

「備陽六郡志」では、草戸千軒は江戸時代前期の寛文年中に流失したとされますが、発掘調査の結果、集落は13世紀の半ば頃(鎌倉時代)に成立、16世紀の初め頃(室町時代)に衰退し、市場町と港町の性格をあわせもっていたことが判明しました。現在では、室町時代を中心とした中世の集落遺跡で、海上交通(瀬戸内水運)、河川交通(芦田川舟運)、陸上交通(山陽道)の結節点にあたり、一帯の物流拠点であったと考えられています。

また、草戸の地名も同時代の史料では、当初は「草出」「草津」「草井地」「草出津」などと記され、15世紀の後半頃には「草土」と記すものも見え始めたことがわかります。

草戸千軒町が衰退したのは「16世紀の初め頃」と記しましたが、「備陽六郡志」が著された18世紀になると、草戸千軒町についての人々の記憶は、心の奥底に仕舞い込まれ、繰り返される芦田川の氾濫と交錯して、17世紀後半に町は流失したという物語が形成されたと推測されます。

かつて繁栄した集落(草戸千軒町のような交易集落・交通集落のほかにも鉱山集落・宗教集落等々)が、その衰退を迎えた後に、「△□千軒」とよばれて繁栄を後代に伝えられることは、各地でみられます。軒を連ねていた家屋が実際に千軒あったかはともかく、往時の殷賑振りが「千軒」の地名に込められています。

ジャパンナレッジの詳細(個別)検索で「日本歴史地名大系」を選択し、「千軒」と入力して見出し検索(部分一致)をかけると、福山市の「草戸千軒町遺跡」を含めて5件がヒットします。北から順に眺めてみましょう。

まず、はじめは北海道松前まつまえ町の「大千軒岳だいせんげんだけ前千軒岳まえせんげんだけ」です。千軒岳は松前半島の南部にそびえる山塊で、標高は大千軒岳が1071メートル、前千軒岳は1056メートル。山頂からの眺望はすばらしく、海を隔てた津軽の連山や道南最高峰の狩場かりば山まで望むことができます。この千軒岳の山名の由来について「日本歴史地名大系」には次のようにみえます。

古くは千軒山(東遊雑記)のほか、仙見ヶ嶽(北海随筆)・泉源が嶽(ひろめかり)・浅見山(谷「蝦夷紀行」)、鬱金うこん嶽(松前広長「松前志」)・鷹待たかまち山(松前町史)などとよばれていた。前掲「松前志」に「昔時金鑿の徒多く屋舎を建連ね、一大郷の如くなりけるよりして千軒と名づけたり。然れども嶽の本名に非ず」とある。山岳信仰の一つである浅間信仰に由来する名称であろう。

繁栄した集落とは関係なく、浅間信仰に由来する山名と推測していますが、千軒岳では17世紀に実際に金山が稼業しており、そのあたりについては、

寛永五年(一六二八)千軒岳で新たに砂金の採掘が始まった。金山総司は蠣崎友広・同宗儀、金山小使は山尻孫兵衛・水間木工左衛門など、金師は仙台人喜介であった(市立函館図書館本「福山秘府」)。

と記されます。浅間信仰に由来する山名が正解なのでしょうが、繁栄した鉱山集落とまったく関連がない、というわけでもなさそうな気がします。

次は福島県会津若松市の「千軒道せんげんみち」です。「日本歴史地名大系」は次のように記します。

滝沢町妙法寺前たきざわまちみようほうじまえ通より西の方紫雲寺前しうんじまえ通に至る、長さ一町五六間・幅二間。昔はこの辺りに家数一千軒があったのでこの名がついたというが、化政期には寺院のみで他の居宅はないという(新編会津風土記)。

地図の中央部付近を横切っていた道に沿い、かつては千軒の町家がひしめく

集落の性格は不明ですが、現在のJR会津若松駅の南東方に、かつて繁栄した街路が東西に通じていたことがわかります。

続いては奈良県吉野町の「岩倉千軒跡いわくらせんげんあと」です。岩倉地区は吉野山最奥に位置する金峯きんぶ神社からみれば、その北西1キロメートルほどの山中に位置し(吉野水分神社の南西方にあたる)、「白河上皇発願の宝塔も所在」するような重要地区で、多くの堂舎が建ち並んでいたことから千軒の名が起こったと推測されます。さらに、「岩倉の谷向いに鎌倉千軒かまくらせんげんがあり、ここの山腹にも広大な屋敷跡が並び石垣の一部も残る。広野千軒ひろのせんげん跡は青根あおねヶ峯の山腹近く、もと水分みくまり神社跡の下方一帯の地域で、文字どおりの広野が幾段にも重なり合う広大な屋敷跡で中世以前栄えた金峯山寺の面影をしのばせる」とも記されます。吉野山一帯には岩倉千軒のほかにも宗教施設が集中して繁栄した地区が幾つか点在していたようです。

最後は岡山県日生ひなせ町(現備前市)の「鹿久居かくい千軒遺跡」です。「日本歴史地名大系」には次のようにあります。

鹿久居島中央部にある港湾遺跡。千軒湾とよばれる小湾を囲んで形成された小都市で、古代末期から中世初期にかけて存在した。千軒湾は、奥泊の入江の東岸にあり、西向きに湾口を開いているため、泊地として良好な条件を備え、外部からは山に隠れて完全に遮蔽されている。出土する遺物は、多量の青磁・白磁を交えており、遺跡が特殊な貿易港の性格をもつことを示す。(中略)周辺は海人の小集落や、風待ちなどの避難港しかみられず、無人地帯の中に形成されていることから、政治権力の及ばない場所を選んで設けられた、法外の自由貿易港であったと推定されている。

どうやら秘密貿易の基地のようですが、草戸千軒町遺跡と同様に、交易都市として繁栄したことをうかがわせます。

「まほろば」と記されたところの北方にある湾入部に秘密貿易基地があった

以上が「見出し」検索でヒットした千軒地名の姿ですが、「かつては繁栄していたが、現在はさびれている」といった共通項が垣間見えるように思います(千軒岳の金山も江戸後期には稼業していなかったようです)。

ところで、「千軒」のキーワードで全文検索をかけると355件がヒットします。もちろん、すべてが「過ぎし日の繁栄を物語る」千軒地名ではありませんが、全文検索でヒットした「千軒」地名の周辺を次回は探ってみたいと思います。

(この稿続く)