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第123回 サキどり! おんな城主・直虎

2016年10月07日

今年のNHK大河ドラマは「真田丸」。大詰が近くなり、舞台も信繁幽閉の地=九度山くどやま(真田庵)から最終決戦の地=大坂城へと移るあたりだと思います。

そこで、来年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の情報をサキどり! とはいっても当欄は「歴史地名」がメインですので、物語の舞台となる地域や、その時代背景について少しばかり探りを……というわけです。

主人公は戦国時代の終わりごろ、遠江の国衆・井伊家の当主となった女性=井伊直虎。直虎とは勇ましい名前ですが、「徳川四天王」のひとりとして名を馳せ、のちに彦根藩の初代藩主となる井伊直政(1561-1602)の養母にあたります。NHKのホーム・ページは井伊直虎について次のように紹介しています。

井伊家当主・井伊直盛の一人娘として生まれる。直盛には他に子がなかったため、幼くして分家の嫡男・亀之丞と婚約し、次の当主の妻として井伊家を盛り立てるはずだった。ところが井伊家は、実質的には強大な今川義元の支配下にあり、亀之丞の父は今川方に謀反の疑いをかけられ、殺害されてしまう。9歳の亀之丞も命を狙われて信州へと逃げ、以降ふっつりと消息が途絶えた。その後別の縁談が持ち上がるが、自ら出家して拒絶。なぜか菩提寺の和尚は「次郎法師」と男の名をつける。

井伊直虎の没年は天正10年(1582)ですが、生年は不詳です。ただし、「寛政重修諸家譜」によれば、前掲の亀之丞(のちの井伊直親。井伊直政の父)は、永禄5年(1562)に27歳で討死していますので、生年は天文5年(1536)ということになります。直虎と亀之丞は幼少時に婚約していますから、直虎と亀之丞との間にあまり年齢差はなかったと考えてよいのではないでしょうか。

「真田丸」のもうひとりの主人公である真田昌幸(信繁の父)は天文16年(1547)に生まれ、慶長16年(1611)に没しますから、直虎は昌幸より10歳前後年長と考えられます。

「真田丸」は天正10年(1582)に、真田氏の主家にあたる甲斐武田氏が天目山てんもくざんで滅亡する話から始まりました。しかし、直虎はこの年に没しており「おんな城主・直虎」の物語は終焉を迎えるはずです。そうしますと直虎が活躍した時代は「真田丸」では描かれなかった昌幸の前半生に相当するといえるでしょうか。

ジャパンナレッジ「国史大辞典」は、直虎の主家にあたる今川氏について次のように記します。

足利氏の支族。東海地方の大名。(中略)氏親の時、遠江を斯波氏より奪い、守護から戦国大名への転換に成功し、子義元はさらに三河を領国化して、最盛期を現出したが、永禄三年(一五六〇)織田信長に敗れ討死した。子氏真に至り家運傾き、同十二年、領国を武田・徳川・北条氏らに奪われ滅亡した。(後略)

直虎の時代、主家今川氏はその絶頂期から滅亡に向かう渦中にあり、滅亡後、直虎は身の処し方に苦悩したに違いありません。ここらあたりも真田昌幸に通じるところがあります。

ところで、真田氏は甲斐武田領の北東端にあたる信濃国小県ちいさがた郡に拠点を置いて、武田家臣の国衆として越後上杉氏や関東の北条氏と対峙していました。一方、井伊氏は武田領の南西端に接する遠江国引佐いなさ郡に拠点を置き、今川家臣の国衆として武田氏や三河徳川氏と対峙します。

また、真田・井伊両氏ともに、その屈強な「赤備あかぞなえ」部隊が敵方に畏れられましたが、「赤備」部隊は武田氏の最強軍団に起因します。こうしてみますと、「真田丸」と「おんな城主・直虎」は、武田領の内と外という違いはあるものの、武田氏を軸として対称的な関係にあった一族の物語といえるかもしれません。

ここまで「おんな城主・直虎」の時代背景を確認してきましたが、最後に井伊氏の名字の地であり、物語の主要舞台となる遠江国引佐郡井伊谷いいのやを紹介しましょう。

ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」は江戸時代の【井伊谷村】(静岡県引佐郡引佐町。現在の浜松市北区)について次のように記します。随分と長い引用となりますが、直虎に関連する史実についても数多く言及していますので、主要部分を転載しました。

現引佐町の南部、井伊谷川に神宮寺じんぐうじ川が合流する小盆地に立地する。「和名抄」にみえる引佐郡渭伊いい郷の中心をなしていたという。渭伊は井からの転化とされ、井水を神聖視する聖水祭祀を行ってきた豪族が栄えた地という(引佐町史)。井伊氏の名字の地とされる。「寛政重修諸家譜」によると、寛弘七年(一〇一〇)遠江国井伊谷八幡の神主が社頭に参り、御手洗井の中で男の赤子を見つけた。神主による養育を経て七歳の時に備中守共資の養子となって共保と称し、のち出生地の井伊谷に移住、井伊を家号としたという奇瑞が述べられている。

〔中世〕井伊いい郷の中心地にあたる。戦国末期の井伊谷は奥山おくやま三岳みたけ久留目木くるめき渋川しぶかわを含む地域の総称としても用いられた。井伊郷の領主井伊氏は当地に井伊谷城を築いて本拠としたとされるが、地名の初見は年月日未詳の伊達忠宗軍忠状(駿河伊達文書)で、永正九年(一五一二)閏四月三日、今川氏親と斯波義達の合戦の最中に今川方の武将伊達忠宗が「井伊谷」への朝駆けの功をあげている。のち当地に龍潭りようたん寺を創建したのが井伊谷城主井伊直平であることから(「勅諡円照真覚禅師文叔大和尚略伝」竜門寺蔵)、伊達忠宗は井伊勢の本拠としての当地を攻撃したものと思われる。その後、井伊氏は今川氏に従ったが、今川義元の尾張桶狭間合戦での敗死後、反今川の動きをみせたという理由で、永禄五年(一五六二)三月二日に井伊谷城主井伊直親が今川家臣朝比奈泰朝に討たれた(異本塔寺長帳・家忠日記増補追加)。井伊家は子息万千代(のちの直政)が幼少のため直親と婚を約していた直盛の娘が次郎法師直虎を名乗って家督を継いだとされ(「寛政重修諸家譜」など)、年寄・親類衆・被官衆が主家を支えたが、当地ではなお動揺と混乱が続いた。このことは、永禄九年に今川氏が当地に徳政令を発布した際、一族の井伊主水佑が銭主と結託して私的にその施行を停止したことに現れている。この井伊谷徳政は同一〇年末から同一一年にかけて匂坂直興が駿府で今川家家臣関口氏経と交渉し(一二月二八日「匂坂直興書状」蜂前神社文書など)、同年八月四日に井伊直虎および親類衆・被官衆にその実現を促す氏経の書状(同文書)が出された。その一方で、九月一四日に銭主瀬戸方久は今川氏真から井伊谷の買得地の安堵を受けており(「今川氏真判物」瀬戸文書)、徳政令にどれほどの実効性があったのか疑問が残る。

永禄一一年一二月、武田信玄の駿河進攻に呼応して徳川家康が遠江に入部した際、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時(井伊谷三人衆)が当地への案内役を勤める功をあげ、同月一二日に家康は三人に井伊谷を与えることを約した(「徳川家康判物写」鈴木重信氏所蔵文書)。なお永禄四年九月一二日と同六年五月二二日に三河宇利うり城(現愛知県新城市)攻めに当たっていた鈴木重勝が井伊谷を通じて今川方と連絡を取合っており(「今川氏真判物」・「今川氏真感状」同文書)、当地は今川氏にとって三河からの情報収集の拠点の一つとなっていた。元亀四年(一五七三)五月の三河長篠ながしの城(現愛知県鳳来町)攻めの際、武田家は井伊谷における伊藤忠右衛門の軍功を賞し(同年一一月二三日「武田家朱印状写」三川古文書)、七月六日には武田勝頼が小笠原信嶺に長篠在城料として井伊谷を与えており(「武田勝頼判物」小笠原家文書)、当地は一時武田氏の勢力下に置かれたものとみられる。その後、徳川氏が支配を回復し、天正一七年(一五八九)四月に龍潭寺領、翌年一月には「井伊谷之内」の三岳村・久留女木村・渋川村の検地を実施した(「龍潭寺領検地帳」龍潭寺文書、「三岳村菅沼次郎衛門方検地帳」旧井伊谷村役場文書など)。このことから井伊谷が広域地名としても用いられていたことが知られる。(以下省略)

浜松市北区の引佐町井伊谷地区。直虎は画面左下にみえる龍潭寺で出家した。

(この稿終わり)