日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
日本全国のおもしろ地名、話題の地名、ニュースに取り上げられた地名などをご紹介。
地名の由来、歴史、風土に至るまで、JK版「日本歴史地名大系」を駆使して解説します。
さらに、その地名の場所をGoogleマップを使って探索してみましょう。

第20回 数の付く地名あれこれ――下総(しもうさ)台地の開拓地

2008年09月19日

一、二、三、四、十、百、千、万など、数の付く地名は全国にたくさんあります。自治体名に限ってみても、富山、福井、島根、岡山、山口、佐賀の6県を除く、41都道府県には、なにかしら数の付く市町村名があります。もっとも現在は数の付く自治体名がない上記6県も、平成の大合併以前は、富山県に八尾(やつお)町(現富山市)、福井県に三国(みくに)町(現坂井(さかい)市)、三方(みかた)町(現若狭(わかさ)町)、島根県に三刀屋(みとや)町(現雲南(うんなん)市)、三隅(みすみ)町(現浜田(はまだ)市)、六日市(むいかいち)町(現吉賀(よしか)町)、岡山県に八束(やつか)村(現真庭(まにわ)市)、山口県に三隅(みすみ)町(現長門(ながと)市)、佐賀県に三日月(みかつき)町(現小城(おぎ)市)、三根(みね)町(現みやき町)、三田川(みたがわ)町(現吉野ヶ里(よしのがり)町)、三瀬(みつせ)村(現佐賀市)、七山(ななやま)村(現唐津(からつ)市)などがあり、かつては、すべての都道府県に数の付く自治体名がありました。

現在の青森県東部から岩手県北部にかけての一帯は、古くは糠部(ぬかのぶ)とよばれ、名馬の産地として広く知られました。この馬産地では、地域を一から九の9つの()と、東西南北の4つの(かど)に分ける、九戸・四門の制とよぶ、ほかの地方(農作中心地帯)とは異なる行政区画が敷かれていました。現在、岩手県にある一戸(いちのへ)町、二戸(にのへ)市、九戸(くのへ)村、青森県の三戸(さんのへ)町、五戸(ごのへ)町、六戸(ろくのへ)町、七戸(しちのへ)町、八戸(はちのへ)市の各自治体名は、この九戸・四門の制の名残です(〈四戸〉の地名は伝えられず、その所在地については諸説があります)。

平安京の条坊制が敷かれた京都にも一条から九条の地名が残りますが、こうした一、二、三、四、五、六、七、八、九といった、数を順番に付ける地名は、それまで荒地だったところを、新たに開拓した場合に多くみられるようです(京都も新京の地に選定され、条坊が割られる以前は、森林・沼沢がいたるところにありました)。近代以降に本格的な開拓が始まった北海道では、札幌、旭川、帯広などの都市部に一条、二条、三条といった〈条地名〉が付けられることが多く、札幌市には〈北五十一条〉まであります。

現在の千葉県北半(旧下総国にあたる)に広がる下総台地にも、明治以降に開拓された地に、1から13の数が付く地名が残されています。以下、この開拓の経緯について少しのぞいてみましょう。

下総台地は中小の河川が開析した谷(谷津)が樹枝状に広がっており、開発は谷津の底部で早く、水利に乏しい上部では遅かったようです。古代の律令制下、下総国には高津(たかつ)馬牧・浮島(うきしま)牛牧など、いくつかの(まき)が置かれていました。牧とは馬・牛などを放牧・飼養する施設で、下総の古代牧は開発の遅かった(荒地として残った)台地上部を取り込んでいたと思われます。中世になると、律令制下の官牧は解体し、かわって香取(かとり)社(香取神宮)支配下の葛原(くずはら)牧などが史料に表れてきますが、『吾妻鏡』などによると、その頃の房総一帯は牛追物や競馬(くらべうま)が盛んで、貢馬・神馬も進献していました。

「谷が発達する下総台地」

Googleマップのページを開く

このような伝統を踏まえ、江戸時代、幕府は下総の東部に小金(こがね)牧、西部に佐倉(さくら)牧を設定します。東方の小金牧は北から南へ連なる高田台(たかだだい)上野(かみの)中野(なかの)下野(しもの)の4牧と、やや離れた印西(いんざい)牧で構成され、西方の佐倉牧は内野(うちの)高野(たかの)柳沢(やなぎさわ)小間子(おまご)取香(とっこう)矢作(やはぎ)油田(あぶらた)の7つの牧から構成されていました。この小金・佐倉両牧を併せ、下総牧ともいいました。幕府は下総牧の経営にあたり(佐倉牧の一部は佐倉藩が管掌)、野付(のつき)村とよぶ、各牧周辺の村々に夫役を課しました。一方で野付村は、その立地を生かし、わずかですが牧内に新畑を開きました。享保年中(1716-36)には幕府代官が大規模な牧地開発を試みますが、牧の野馬が開墾地へ侵入、思うような成果はあげられませんでした。

こうして下総台地の上部は、野付村諸村の耕地となった一部を除き、荒涼たる原野の姿を残したまま明治時代を迎えます。

明治2年(1869)、新政府は東京府下の困窮民授産を目的に、下総牧の開墾を企てます。東京府に開墾役所(のちの開墾局)を置き、府下の豪商を奨励して開墾会社を設立させました。政府は開墾会社に20万両を貸し付け、開墾地を預任、代わりに入植者の面倒は会社がみることとしました。開墾のガイドラインである「窮民授産開墾規則」などによると、入植者には耕地・宅地・農具などが配分・貸与され、3年間は食糧も支給されます。さらに開墾を終えて支給食糧等の借財を返済すれば、3町歩の地主になれるとうたわれていました。失禄の下級武士、幕末の混乱で生活の方図を奪われた小商人、あるいは小農の次三男、こうした人々を中心とする多くの開拓移民が自作農を夢見て旧下総牧(政府の手元に残された小間子牧・取香牧を除く)に入植、明治4年段階で入植者数は6千人を超えました。

ところで、入植地はそれ以前は幕府直轄の牧であったため字名がありませんでした。開墾局知事北島秀朝は開拓民が初めて入植した地を初富(はつとみ)と命名、以下入植順に下表のような12の地名を付けました(入植は13次にわたりましたが、のちに5次と6次の入植地を合わせて一つの地名としました)。

入植の
順番
付けられた
地名
読み現在の地名江戸時代の牧名
1初富(村)はつとみ鎌ヶ谷市初富・北初富・南初富など中野牧
2二和(村)ふたわ船橋市二和東・二和西など下野牧
3三咲(村)みさき船橋市三咲など下野牧
4豊四季(村)とよしき柏市豊四季など上野牧
5・6五香六実(村)ごこうむつみ松戸市五香六実・五香西・五香南など中野牧
7七栄(村)ななえ富里市七栄内野牧
8八街(村)やちまた八街市八街など柳沢牧
9九美上(村)くみあげ香取市九美上油田牧
10十倉(村)とくら富里市十倉高野牧
11十余一(村)とよいち白井市十余一など印西牧
12十余二(村)とよふた柏市十余二など高田台牧
13十余三(村)とよみ成田市十余三など矢作牧

入植当時の旧牧地は灌木・茨根のはびこる荒野でした。なにしろ江戸時代を通じ(あるいはそれ以前から)牛馬放牧地として人為が入ることを極力避けてきていますから、いわばサンクチュアリとなっていました。開拓民は粗末な農舎に住まい、馴れない仕事で手足は荊棘に傷つきました。覚悟していたとはいえ、連日の過酷な労働は東京(江戸)の生活になじんできた者たちの勤労意欲を失わせます。入植間もない頃から脱走者が相次ぎ、五香・六実では明治2年に旧幕臣元小人目付某が脱走したのをはじめ、同5年までに33名が逃亡しています。逃亡者の内訳は旧幕臣9名、ほかは大部分が小商人で、さすがに農村出身者はいませんでした。脱出者の続出、さらに天候不順による連年の凶作もあって、下総台地開墾事業は失敗に終わり、明治5年、開墾会社は解散します。

解散に伴って、開墾地は東京府から当時の印旛(いんば)県(九美上は新治(にいはり)県)に移り、前掲の12村(五香と六実は合併)が誕生します。一朝にして3町歩自作農の夢が消えた開拓民は、会社側から5反5畝の土地を与えられ、一応自作農となりました。しかし、食糧支給という最低の保障は打ち切られ、しかも与えられた5反5畝は開墾したばかりの荒蕪地。生活のできるはずもなく、多くの者が土地を売り、四方八方へと散っていきました。一方、解散後の開墾会社は投資金の見返りとして借受金20万両の返済を免れ、新たに小間子牧も下附されました。のち開墾地の大部分と小間子牧は旧開墾会社員が、出資額に応じて按分。こうした不公平がもとで、地券交付を機に土地争議が生じます。明治27年には衆議院で田中正造がこの争議を取り上げたものの進展せず、解決は第2次世界大戦後の農地改革まで持ち越されました。

わずかに残った初期入植者、のちに関東近県を中心に新たに入った開拓民、彼らの筆舌に尽くしがたい辛苦が報われ、やがて原野は落花生や蔬菜類の名産地へと変貌していきます。それでもなお開発の及ばなかった旧牧地は、戦前は主に軍事施設に、近年は大規模宅地開発や工業団地用地などに利用されました。設置・開港にあたり大規模な抵抗運動が起こった新東京国際空港(成田空港)も、取香(とっこう)牧を継承する三里塚牧場や開墾地〈十余三〉など、その開発に艱難辛苦の歴史が刻まれた旧下総牧の地に開かれました。