一、二、三、四、十、百、千、万など、数の付く地名は全国にたくさんあります。自治体名に限ってみても、富山、福井、島根、岡山、山口、佐賀の6県を除く、41都道府県には、なにかしら数の付く市町村名があります。もっとも現在は数の付く自治体名がない上記6県も、平成の大合併以前は、富山県に
現在の青森県東部から岩手県北部にかけての一帯は、古くは
平安京の条坊制が敷かれた京都にも一条から九条の地名が残りますが、こうした一、二、三、四、五、六、七、八、九といった、数を順番に付ける地名は、それまで荒地だったところを、新たに開拓した場合に多くみられるようです(京都も新京の地に選定され、条坊が割られる以前は、森林・沼沢がいたるところにありました)。近代以降に本格的な開拓が始まった北海道では、札幌、旭川、帯広などの都市部に一条、二条、三条といった〈条地名〉が付けられることが多く、札幌市には〈北五十一条〉まであります。
現在の千葉県北半(旧下総国にあたる)に広がる下総台地にも、明治以降に開拓された地に、1から13の数が付く地名が残されています。以下、この開拓の経緯について少しのぞいてみましょう。
下総台地は中小の河川が開析した谷(谷津)が樹枝状に広がっており、開発は谷津の底部で早く、水利に乏しい上部では遅かったようです。古代の律令制下、下総国には
このような伝統を踏まえ、江戸時代、幕府は下総の東部に
こうして下総台地の上部は、野付村諸村の耕地となった一部を除き、荒涼たる原野の姿を残したまま明治時代を迎えます。
明治2年(1869)、新政府は東京府下の困窮民授産を目的に、下総牧の開墾を企てます。東京府に開墾役所(のちの開墾局)を置き、府下の豪商を奨励して開墾会社を設立させました。政府は開墾会社に20万両を貸し付け、開墾地を預任、代わりに入植者の面倒は会社がみることとしました。開墾のガイドラインである「窮民授産開墾規則」などによると、入植者には耕地・宅地・農具などが配分・貸与され、3年間は食糧も支給されます。さらに開墾を終えて支給食糧等の借財を返済すれば、3町歩の地主になれるとうたわれていました。失禄の下級武士、幕末の混乱で生活の方図を奪われた小商人、あるいは小農の次三男、こうした人々を中心とする多くの開拓移民が自作農を夢見て旧下総牧(政府の手元に残された小間子牧・取香牧を除く)に入植、明治4年段階で入植者数は6千人を超えました。
ところで、入植地はそれ以前は幕府直轄の牧であったため字名がありませんでした。開墾局知事北島秀朝は開拓民が初めて入植した地を
入植の 順番 | 付けられた 地名 | 読み | 現在の地名 | 江戸時代の牧名 |
1 | 初富(村) | はつとみ | 鎌ヶ谷市初富・北初富・南初富など | 中野牧 |
2 | 二和(村) | ふたわ | 船橋市二和東・二和西など | 下野牧 |
3 | 三咲(村) | みさき | 船橋市三咲など | 下野牧 |
4 | 豊四季(村) | とよしき | 柏市豊四季など | 上野牧 |
5・6 | 五香六実(村) | ごこうむつみ | 松戸市五香六実・五香西・五香南など | 中野牧 |
7 | 七栄(村) | ななえ | 富里市七栄 | 内野牧 |
8 | 八街(村) | やちまた | 八街市八街など | 柳沢牧 |
9 | 九美上(村) | くみあげ | 香取市九美上 | 油田牧 |
10 | 十倉(村) | とくら | 富里市十倉 | 高野牧 |
11 | 十余一(村) | とよいち | 白井市十余一など | 印西牧 |
12 | 十余二(村) | とよふた | 柏市十余二など | 高田台牧 |
13 | 十余三(村) | とよみ | 成田市十余三など | 矢作牧 |
入植当時の旧牧地は灌木・茨根のはびこる荒野でした。なにしろ江戸時代を通じ(あるいはそれ以前から)牛馬放牧地として人為が入ることを極力避けてきていますから、いわばサンクチュアリとなっていました。開拓民は粗末な農舎に住まい、馴れない仕事で手足は荊棘に傷つきました。覚悟していたとはいえ、連日の過酷な労働は東京(江戸)の生活になじんできた者たちの勤労意欲を失わせます。入植間もない頃から脱走者が相次ぎ、五香・六実では明治2年に旧幕臣元小人目付某が脱走したのをはじめ、同5年までに33名が逃亡しています。逃亡者の内訳は旧幕臣9名、ほかは大部分が小商人で、さすがに農村出身者はいませんでした。脱出者の続出、さらに天候不順による連年の凶作もあって、下総台地開墾事業は失敗に終わり、明治5年、開墾会社は解散します。
解散に伴って、開墾地は東京府から当時の
わずかに残った初期入植者、のちに関東近県を中心に新たに入った開拓民、彼らの筆舌に尽くしがたい辛苦が報われ、やがて原野は落花生や蔬菜類の名産地へと変貌していきます。それでもなお開発の及ばなかった旧牧地は、戦前は主に軍事施設に、近年は大規模宅地開発や工業団地用地などに利用されました。設置・開港にあたり大規模な抵抗運動が起こった新東京国際空港(成田空港)も、