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第138回 初詣、羽田穴守神社と柳島妙見

2018年01月12日

新年明けましておめでとうございます。

三が日に初詣に行かれた方も多いことと思います。ところで、現在のような形態の「初詣」は意外と新しい風習だということはご存知でしたか。ジャパンナレッジ「世界大百科事典」の【初詣】の項目は次のように記します。

正月元旦の早朝,社寺に参詣する習俗で,ふつう除夜の鐘をきいてすぐ参詣に行くのを二年まいりと称している。都会の民俗として全国的に広まったが,とくに年の神のやってくる恵方(えほう)の方角にある社寺に参るのがよいとされた。(中略)恵方参りの初詣は,江戸時代,京,大坂,江戸を中心に,節分の夜行われていたが,一方,大晦日の夜,家の主人が氏神の社にこもったり,社前でたき火をして徹夜する風習があった。新年の出発を大晦日の夜とする感覚が,以前の庶民の中にはあったと考えられており,大晦日の神社籠りが初詣に通じている。しかし新年が午前零時にはじまるという考えが常識化するようになると,今度は元旦早朝の社寺詣が優勢になり現在の初詣に統一されたのである。

江戸時代に三都(京・大坂・江戸)を中心に節分の夜に行われていた恵方参りの習俗と、大晦日の神社籠りの習俗が合体し、「新年が午前零時にはじまるという考えが常識化」して以降(太陽暦が採用され、時計も普及した後のことと考えられますから、明治時代中期以降でしょうか)、現在のような初詣の形態が広まったとされます。

ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」の【初詣】の項は、阿波野青畝の句集「万両」(1931年=昭和6年)に載る「口開いて矢大臣よし初詣」の句を早い用例として引いています。また、初詣と同じ意味合いの【初参(はつまいり)】の項では、朝野新聞の明治22年(1889)1月2日付の記事から「深川は成田山不動明王へ初参(ハツマヰ)りの」という用例を早期のものとして取り上げています。いずれも近代以降の用例です。

ジャパンナレッジ搭載の叢書類で「初詣」の用例を検索してみますと、「群書類従」(続群書類従)の「満済准后日記」(まんさいじゅごうにっき)応永32年(1425)正月16日に、(毎年恒例の)「初詣」参拝先として「祇園」(祇園社、京都市東山区八坂神社)、「北野」(京都市上京区北野天満宮)、「平野」(京都市北区平野神社)などがあげられています。「初詣」の用語の早い例ですが、日付は16日で、さまざまな正月行事を終えたあとでの参詣であり、現在の初詣とは少しばかり趣がちがうのではないでしょうか。

「満済准后日記」で正月の初詣参拝先にあがる北野天満宮と平野神社。

次に「東洋文庫」で「初詣」の全文検索をかけますと、明治38年の「絵本江戸風俗往来」(4代目歌川広重=菊池貴一郎)にみえる「大師河原の初詣」(川崎大師)の記事が比較的早い「初詣」の使用例になります。「東洋文庫」には「東都歳事記」をはじめ、江戸時代の「地誌類」が多く含まれているにもかかわらず、明治時代後半になってからのヒットとなりました。ただし、「絵本江戸風俗往来」の記事も初大師(1月21日)の参詣についての記事であり、現在の初詣習俗とは異なっています。

「東洋文庫」で「絵本江戸風俗往来」に次ぐ早期の用例は、明治44年の「東京年中行事」(若槻紫蘭)にみえる「恵方詣と初詣」の記載です。これは、元日行事として「恵方詣と初詣」を取り上げ、恵方詣以外に初詣で賑わう主な神社仏閣として「神田明神」(千代田区神田神社)、「靖国神社」(千代田区)、「深川八幡」(江東区富岡八幡宮)、「浅草観音」(台東区浅草寺)、「西新井、川崎両大師」(西新井大師=足立区総持寺と川崎大師)、「羽田穴守神社」(大田区穴守稲荷神社)、「待乳山聖天」(台東区待乳山聖天宮)、「亀戸神社」(江東区亀戸天神社)、「柳島妙見」(柳島妙見堂=墨田区妙見山法性寺)などをあげています。やっと現在の初詣と同じ習俗についての記述がみつかりました。

2009年1月9日付の読売新聞(東京)夕刊によりますと、警視庁がまとめた同年正月三が日の初詣参拝者は全国で9939万人、人出の多かった神社・仏閣のベストテンは、

1位=明治神宮(東京都渋谷区)
2位=成田山新勝寺(千葉県成田市)
3位=川崎大師(川崎市川崎区平間寺)
4位=伏見稲荷大社(京都市伏見区)
5位=鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
6位=浅草寺(東京都台東区)
7位=住吉大社(大阪市住吉区)
7位=熱田神宮(名古屋市熱田区)
9位=大宮氷川神社(さいたまし市大宮区)
10位=太宰府天満宮(福岡県太宰府市)

となっています。9年前の統計ですが(2010年以降は警視庁による全国規模の発表はありません)、ベストテンの顔ぶれは今もあまり変動はないでしょう。

このベストテンの顔ぶれと「東京年中行事」で取り上げられた社寺の顔ぶれを比較しながら眺めてみると、やはり、交通網が充分に発達してからのちに、現在のように元日あるいは三が日に、高名な社寺に参拝する習俗が広まり、定着したことがわかるのではないでしょうか。

ところで、「東京年中行事」に取り上げられた前掲諸社寺のうち、「神田明神」「靖国神社」「深川八幡」「浅草観音」「西新井、川崎両大師」「待乳山聖天」「亀戸神社」は今も参詣客の多い高名な神社仏閣といえますが、「羽田穴守神社」や「柳島妙見」はあまり馴染み深い社寺とはいえません。

そこで、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」などを活用して、「羽田穴守神社」と「柳島妙見」について調べてみました。まずは「羽田穴守神社」ですが、「日本歴史地名大系」では【大田区】の項目につぎのような記載がみえます。

同(明治)三五年蒲田―穴守あなもり間が開通して穴守線と称した(現京浜急行)。旧鈴木すずき新田(現羽田空港敷地)に祀られていた穴守稲荷(現穴守稲荷神社)は明治二〇年頃から関東一円の人々の信仰を集め、「参詣者の多きことは、ここに電車が通じたるにても知らるべく、鳥居のトンネルにても知らるべく」(大町桂月「東京遊行記」)という賑いをみせ、一帯には鉱泉宿・料理屋などができて繁華な町となった。

現在の京浜急行羽田空港線は、穴守稲荷への参詣客輸送が、当初の目的の一つだったようです。ジャパンナレッジ「風俗画報」の名所図会(「穴守稲荷の図」明治44年)でも穴守稲荷門前の繁盛振りが伺えます。しかし、第二次世界大戦後、一帯はアメリカ占領軍の空軍基地となり、立退きを強制された穴守稲荷は、いったん羽田神社に合祀されたのち、現在地の大田区羽田5丁目に移転。旧社地は同27年の日本返還後に東京国際空港(羽田空港)の用地となります。

次は「柳島妙見」です。「日本歴史地名大系」の【柳島村】の項目に「法性ほつしよう寺(現日蓮宗)の妙見堂の本尊妙見菩薩は霊験があるとして参詣する者が多かった」との記述がみえ、ジャパンナレッジ「江戸名所図会」(天保年間)でも、北を十間川(北十間川)、東を横十間川に画された境内に参詣客が集まる様子が描かれています。昨年末に国立劇場で上演された歌舞伎「隅田春妓女容性(すだのはるげいしゃかたぎ)」(通称「梅の由兵衛(うめのよしべい)」、並河五瓶作。寛政8年(1796)江戸桐座初演)も「柳島妙見」を主要な舞台とした物語です。

北十間川と横十間川に画された柳島妙見堂(妙見山法性寺)。

現在のような「初詣」が意外と新しい風習だということは御理解いただけたかと思います。ところで、来年の初詣先の候補として、筆者が秘かに狙っている神社があります。それは、京都市上京区の護王神社(烏丸通に面し、京都御苑の西側に所在)。門前に狛犬ならぬ狛猪が鎮座しています。古くは狛犬だったそうですから、犬(戌)から猪(亥)に代わる……おっとっと、来年のことをいうと何とやらといいますので、このあたりで……。

(この稿終わり)