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第61回 同一市名あれこれ(1)

2012年02月24日

現在、全国で表記が同一の市名は、広島県の府中市と東京都の府中市(どちらも読みは「ふちゅう」)、北海道の伊達市と福島県の伊達市(どちらも読みは「だて」)の2例を除いてほかにありません。

これは、新たに市となる地方公共団体の名称(新市名)については、既存の市の名称と同一(あるいは類似)の市名とならないよう配慮する、という行政官庁による指導慣行があったからです。この慣行は昭和45年(1970)3月12日に自治省事務次官通知で明文化され、のちのガイドラインとなります。現在、地方公共団体(都道府県や市区町村)の監督官庁は総務省ですが、第二次世界大戦前は内務省が管掌していました。敗戦後、GHQによって内務省は解体され、内事局、総務庁自治課、地方自治庁、自治庁を経て昭和35年に自治省が発足、平成13年の中央省庁再編により総務省の所管となりました。

戦前の内務省時代、「既存の市名と同一、あるいは類似の市名は避ける」という規定はなかったと思われます。といいますのも、大正3年(1914)に福岡県若松町が市制施行する際、すでに福島県に若松市(明治32年=1899年に市制施行。現在の会津若松市)が存在していたにもかかわらず、重複する新市名が認められていますから。

もっとも福岡県若松市(現在は北九州市若松区)が誕生した頃は、市の数は全国で100に達していませんでした(大正11年段階で全国の市数は91。以下、全国の市数は平成23年版『全国市町村要覧』に掲載の「地方公共団体の数の変遷」によります)。ですから、内務省もかかる事態(市名の重複)を想定していなかったのかもしれません。

ところが、内務省が解体された直後の昭和23年(1948)2月段階では、全国の市数は207にのぼっていますから、この頃には「市名の重複は避ける」という内規が生まれていた可能性は高いと思われます。では、どうして同一市名を避けるのでしょうか。これは、県名の場合を想定してみると理解しやすいかもしれません。仮に東北地方と九州地方に同一の「A県」という県名があったとします。東北と九州ですから区別はつきますが、監督官庁の立場で考えますと、行政上の混乱が生じることは容易に想定されますので、同一県名は避けるように指導することになります。まだ数が少なかった「市」にも同じ論理が働いたのではないでしょうか。

では、例外である2つの府中市と2つの伊達市はどういう経緯で誕生したのか? そのあたりを探っていくことにします。

まず、府中市の場合をみてみましょう。広島県府中市が誕生したのは、昭和29年(1954)3月31日。それまでの広島県芦品あしな郡府中町と周辺の5村が合併、市制に移行して府中市となります。一方、東京都府中市が誕生したのは、広島県府中市成立の翌日にあたる昭和29年4月1日。同じく、それまでの東京都北多摩きたたま郡府中町と隣接する2村が合併、市制施行して府中市となりました。ただし、広島県府中町と東京都府中町が市への昇格を準備している段階では、全国どこにも府中市は存在していませんでした。

ここからは筆者の想像ですが、当時の自治庁は、この2つの府中市誕生という事態を歓迎してはいなかったと推測されます。両府中町に対しても、「2つの府中市」を回避するよう指導したと思います。ところが先述したように、この頃は福島県若松市と福岡県若松市という「2つの若松市」が共存していました。ですから、自治庁の説得も今一つ迫力を欠いていたのではないか……と思われるのです。

加えて、一般に「府中」という地名は古代の国府所在地(現在でいえば県庁所在地にあたる)に由来する、とても由諸のある地名です。広島県芦品郡府中町は備後国府が、東京都北多摩郡府中町は武蔵国府が、それぞれ淵源となっています。どちらの府中町も長い歴史を背負っていますから、お互い譲らなかったと思います。

両府中市が誕生した1950年代は、昭和28年(1953)10月1日に施行された町村合併促進法、および昭和31年(1956)6月30日に制定された新市町村建設促進法をうけて多くの市が誕生しました(いわゆる「昭和の大合併」の時代)。昭和28年4月段階で280であった市の数は、昭和34年10月には555と2倍近くに増加しています。いわば「2つの若松市」を逆手にとり、新市誕生ラッシュの混乱に乗じて成立したのが「2つの府中市」といえるかもしれません。

ところで、両府中市誕生の翌年(昭和30年)1月1日に福島県若松市は周辺の7か村を編入、あわせて会津若松市と改称しました。『会津若松市史』(第10巻「会津、戦後から明日へ」平成21年刊)は、この改称について次のように触れています。

次は新市名の選定になるが、今回の七ヵ村合併にあたっては対等合併の意を打ち出す必要があること(実際の手続上は編入=筆者注記)、この合併により人口、面積は勿論、産業、文化、教育、交通などの会津の中心都市になったこと、その他地名の問題を含めて、住民も会津を冠した地名を支持していることなどから「会津若松市」とする議決をし、県議会の議決を経て昭和三十年一月一日、会津若松市は誕生した。

『会津若松市史』はあくまでも「若松市」を存続させることで吸収合併(編入)のイメージが強くなることを回避する=他の合併町村に対する配慮=が改称の第一義である、と強調しています。そして、ここにみえる「その他地名の問題」という文言が、「福岡県若松市」との重複ということを指しているのかどうかは判然としませんが、昭和33年(1958)3月に、福島県総務部地方課が刊行した『町村合併の記録』には、若松市から会津若松市への改称理由の一つに、次のような問題点があったことが記されています。

しかも若松市は福岡にも若松市あり、電信・電話・郵便等交錯すること夥しく特に郵便にありては日平均50通の誤記あり、甚だしきは日に100通に達する状況にて行政事務の円滑、住民の利便を図る必要があったこと

やはり、「福岡県若松市」との重複が市名改称の要因の一つだったようです。ただし、筆者は、2つの府中市誕生を阻止できなかった自治庁の側面からの指導・圧力も相当なものではなかったか……と推察します。つまり、次々と「2つのA市」が誕生する事態を回避したかった自治庁は、とりあえず「若松市の重複」を解消し、「府中市の重複」という事態は「例外であり、極めて稀なケースである」と位置づけたかったのではないか……と勘繰る次第です。

1960年代、町村合併、新市誕生の動静は鎮静化に向かいます。昭和34年(1959)10月段階で555であった市の数は、10年以上経過した昭和45年(1970)4月段階で564。この間の増加率は2パーセント未満にとどまっています。しかし、1970年代に入ると、新市誕生は再び活性化。昭和45年(1970)4月段階で564であった市の数は、2年後の昭和47年(1972)4月には643と100近く増加しました(率でいえば18パーセント増)。こうした新市誕生活性化の動きを事前に察知していた自治省が、同一市名は許さない、という暗黙のルールを再確認するために出したものが、先述した昭和45年(1970)3月12日の自治省事務次官通知だったのではないでしょうか。

次回は伊達市の場合を考察します。

(この稿続く)

東京都府中市の国指定史跡、「武蔵国府跡」

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備後国府跡が有力視される広島県府中市「ツジ遺跡」(地図の中央付近)

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