皆さんは「城南五山」という言葉を聞いたことがありますか? 知っている方はあまり多くはないと思います。ジャパンナレッジの基本検索で「城南五山」と入力して串刺し検索をかけても、「見出し」「全文」ともにゼロヒットでした。
じつは、東京都23区の南部(城南地区)の不動産業界を中心に用いられている言葉で、品川駅から目黒駅にかけての山手線の内側、住所でいえば、品川区北品川、
サイト記事のサブタイトルに「武蔵野台地の突端を歩く」とありますが、「城南五山エリア」は、武蔵野台地の東南端、淀橋台のうちの北側を古川(渋谷川)、南側を目黒川に開析された残丘といえるような台地面、この台地面の南半部(目黒川とその支流に開析される)にある五つの丘(小ピーク)=
台地面の北半部(古川とその支流に開析される)は、住所でいえば港区高輪、
一般的にいう「五山(ござん)」とは、ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」(読みは「ごさん」)でみると、(1)「インドで、祇園精舎、竹林精舎、大林精舎、鹿園精舎、那爛陀寺をいう」、(2)「中国、宋代、径山(きんざん)寺、広利寺、天童景徳寺、霊隠(りんにん)寺、浄慈(じんず)寺をいう」とあります。さらに、(3)日本の場合は、
中世の禅宗官寺制度での寺格の一つ。十刹、諸山の上に位置する最高の寺格。原則として幕府が公帖(こうじょう)を発行して住持を任命した。京都五山と鎌倉五山があり、五山位にあった諸寺は、時期によって多少の異同があるが、将軍足利義満の代の至徳三年(一三八六)の制度では、京都五山として、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺があり、鎌倉五山として、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺があった。五岳。
とあります。ほかに(4)京都と鎌倉の格式ある「五つの尼寺」も五山(尼五山)とよばれていました。なお、(3)では、五山を「五岳(ごがく)」ともいうとみえますが、五岳でいえば「阿蘇五岳」や「北信五岳」が広く知られています。
厳しい修行の場としての山(寺)をいう「五山」、峻険な山峰をいう「阿蘇五岳」や「北信五岳」と比較すると、「城南五山」はかなり軟弱なシロモノといえるでしょう。
ここからは「城南五山」のピークごとの「山名由来」などをみてゆきましょう。まず、御殿山は「日本歴史地名大系」によると以下のようです。
武蔵野台地を構成する
山(台地)の西麓に徳川将軍家の御殿(御茶屋)が作られたことが山名の由来。しかし、御台場建設や鉄道敷設によって山は削られ、桜の名所としても一旦は廃れました。近年、御殿山公園や御殿山通り沿いに桜が植えられおり、高級住宅地としてばかりではなく、桜の名所としても復活を目指しているようです。
江戸時代に品川御殿が設けられたのが御殿山の由来。古くからの高級住宅地
次に御殿山の北方に位置する「八ツ山」ですが、これがちょっと難しいのです。ジャパンナレッジ「江戸名所図会」は「谷山」と表記し、大略次のように記します。
品川(品川宿)の入り口にあたる「海に臨む丘」をいい、古くは大日山ともいった。八人の諸侯の邸宅があったことなどが八ツ山の由来といわれているが、その証はなく、谷山村の村域であることが由来で、べつに山(丘)の名前に限定されるわけではない。
(品川区の)谷山村について「日本歴史地名大系」は「ややま」の読みで立項し、「やつやま」ともよばれたと記します。しかし、同大系では村域に品川の入り口にあたる丘を含みません。また、浮世絵の類でも「八ツ山下」は(船を出しての)「月見の名所」として描かれますが、山(丘)の名称としては取り上げられません。
山名の由来は判然としないのですが、現在、橋名として「八ツ山橋」「新八ツ山橋」の名が残り、その西側には三菱グループの迎賓館「開東閣」(旧伊藤博文邸地、旧岩崎家高輪別邸)が威容を誇っています。
支谷を挟んで八ツ山の北西にあたる島津山は、明治初期から昭和初期にかけて、旧鹿児島藩主島津氏の本邸が設けられていたことに由来します(それ以前、江戸時代の中期以降は仙台藩伊達氏の下屋敷)。大正時代には島津邸にジョサイア・コンドル設計の洋館(現在は清泉女子大学本館。国指定重要文化財)も完成しました。しかし、昭和初期に邸地は島津氏の手を離れ、曲折を経て清泉女子大学の所有するところとなり、昭和37年に横須賀からキャンパスを移転、現在に至ります。
島津山の由来となった旧島津邸をキャンパスにする清泉女子大学
江戸時代には
最後の花房山は池田山の西に連なります。明治~大正期の外交官、花房義質(はなぶさ・よしもと。枢密顧問官、日本赤十字社社長などを歴任。子爵)の邸地であったことが由来です。一帯は江戸時代、播磨国三日月藩森家の上屋敷(品川区内にあった唯一の上屋敷)でしたが、明治時代に花房氏の邸地となり花房山とよばれるようになりました。現在、コロンビア大使館の敷地内にある日本庭園は旧花房邸の面影をとどめているといいます。
花房義質は、戦前の対朝鮮外交で重要な役割を担いましたが、あまり知られた人物ではありません。品川区では、山手線沿いに目黒駅から花房山を下り五反田駅に向かう通りを「花房山通り」と名付け、花房義質と花房山の名を売り出そうと力を注いでいます。
コロンビア大使館の日本庭園は、旧花房邸の面影を残す
かくいう筆者も、今春早々(東京に春一番が吹き荒れた日)、友人たちと連れ立って城南五山を縦走してきました。コースタイムは4時間ほど(コーヒータイムを含む)。高級な邸宅が次々と視界に現れるアップダウンの激しい山行でした。マンションなど集合住宅では、「御殿山」「島津山」「池田山」「花房山」を冠した建物名を数多く確認しました。ただし、「八ツ山」を冠した建物はほとんどなく、従来の町名である「高輪」を冠した建物名が多かったように思います。
同じ淀橋台の台地面にありながら(港区と品川区の区境が、ほぼ古川と目黒川の分水嶺となる)、北部の古川流域(港区域)は高輪・白金といった不動産価格の高いところ、南部の目黒川流域(主に品川区域)も同じように不動産価格は高いのですが、北部に比べるといささか見劣りがするようです。
考えてみますと、品川区を中心とした不動産業界が、淀橋台東南部の台地面南側一帯を「城南五山エリア」と名付けて、イメージアップに躍起となっている理由がわからないでもない、といえるでしょうか。
(この稿終わり)