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第97回 「竹水門」はどこだ!(2)

2015年05月29日

先回は、「日本書紀」のヤマトタケル東征説話にみえる、蝦夷の賊首や嶋津神・国津神たちが集結した「竹水門たかのみなと」について、現在の宮城県宮城郡七ヶ浜しちがはま町の湊浜みなとはま地区に充てる説が優勢である、と記しました。あわせて、現在の茨城県北茨城市・高萩市・日立市にあたる常陸国多賀たが郡(古くは多珂たか郡)や陸奥国行方なめかた郡(現在の福島県南相馬市一帯にあたる)の多珂郷も「たか」の地名を継承する候補地とみる説があることを紹介しました。

ここで、今一度ヤマトタケルが「竹水門」に至る経路を確認しますと、「海路うみつちより葦浦あしのうらめぐる。よこしま玉浦たまのうらに渡りて、蝦夷えみしさかひに至る。」とあります。

つまり、葦浦・玉浦を経て、竹水門(蝦夷の境)に着いたと考えられます。では、葦浦・玉浦はどのあたりか? ということになります。

吉田東伍の「大日本地名辞書」は【竹水門】の項で、陸奥国の(宮城県)名取なとり郡の海浜部が「玉浦」ともよばれていることに言及しています。しかし、一方で、上総・安房にも葦浦・玉浦に擬せられる地があるとして、下総の【玉崎たまさき神社】(現千葉県あさひ飯岡いいおか)の項目で、同社と上総一宮である玉前たまさき神社(現千葉県長生ちょうせい一宮いちのみや町)との間に広がる九十九里浜が玉浦にあたるのではないかと推定しています。また葦浦については、「あし」と「よし」が入れ替わることはよくみられることだとして、安房国太海ふとみ村の「吉浦よしうら」(現千葉県鴨川かもがわ江見吉浦えみよしうら)を「日本書紀」にみえる「葦浦」の地にあてています。

ジャパンナレッジ「日本古典文学全集」の注記も、「玉浦」については「和名抄」に下総国匝瑳そうさ珠浦たまうら郷がみえることに言及しながらも(匝瑳郡は現在の千葉県匝瑳市の一帯)、「大日本地名辞書」の葦浦・玉浦の比定地を踏襲して紹介しています。

しかし、仮に葦浦・玉浦が房総半島の海岸線に位置していたとすれば、筆者は少し違和感を覚えます。玉浦を九十九里浜辺りにあてたとして、問題は同所から仙台湾へのいきなりの長駆です。九十九里浜の北東端にあたる犬吠埼いぬぼうさきから仙台湾まで直線距離で290キロメートル内外、海岸線をたどれば約330キロメートルになります。玉浦が名取郡であったら問題はないのでは? という意見もあると思いますが、その場合、葦浦と玉浦の距離が問題となりますし、葦浦・玉浦ともに竹水門の近くだったとすれば、今度は「上総」から仙台湾への距離が問題となります。

ここで目を転じ、ヤマト王権の東方侵攻に関して、日本海側の様子をみましょう。「六国史」等で確認しますと、大化3年(647)に渟足ぬたり柵(現新潟市中央区沼垂ぬったり地区が遺称地。阿賀野あがの川の河口部近く)、翌大化4年には磐舟いわふね柵(現新潟県村上市岩船いわふね地区が遺称地。いし川の河口部近くか)が設けられます。斉明天皇4年(658)に都岐沙羅つきさら柵(所在地不明。現在の山形県内か)が設置され、和銅元年(708)越国こしのくにの一郡として出羽でわ郡が建てられました。翌和銅2年に「出羽柵」(現山形県の庄内地方、最上川の河口辺りか)の名称が史料にみえ、和銅5年には出羽国が建置されました。そして、天平5年(733)出羽柵を「高清水たかしみず岡」(現秋田県秋田市の雄物おもの川河口部、高清水丘陵)に移し、この移された出羽柵が、以後の出羽国経営の拠点となる秋田城の前身となりました。

渟足柵が置かれた新潟市と秋田城があった秋田市とは直線距離で約210キロメートル(海岸線では約270キロメートル)。この間を100年近い年月をかけ、磐舟、都岐沙羅、出羽と柵を進めながら、少しずつ北進していったことが分かります。

日本海側の侵攻スピードを各駅停車とするならば(柵の位置は在来線の特急停車駅といった間隔ですが、かけられた時間を考慮すれば各駅停車並みといえます)、ヤマトタケルの「葦浦・玉浦」から「竹水門」への展開は東北新幹線「はやて」並みのスピードといえるのではないでしょうか。

そこで、筆者が「竹水門」の候補地として注目したいのが常陸国多珂郡(のちの多賀郡)です。同郡はその領域が確定するまでに、数回の変動がありました。

「六国史」や「常陸国風土記」「国造本紀」等によれば、かつて(のちの常陸国の)多珂国造の領域は、現在の福島県双葉ふたば大熊おおくま町あたりまでを含んでいましたが、白雉4年(653)にその北半を割いて石城いわき郡(のちの陸奥国磐城いわき郡に相当)を分置したといいます。さらに養老2年(718)には、常陸国多珂郡の210戸を割いて菊多きくた郡と名付け、陸奥国5郡(石城郡を含む現在の福島県浜通り地方の諸郡)と併せて石城国が新たに設置されました。しかし、神亀5年(728)以前に石城国は陸奥国に復帰しました。

この変遷は、(常陸国の)「多珂」の版図はんとが、(のちの陸奥国に)少しずつ吸収されながら縮小してゆく様子を伺わせます。いかにも「熟蝦夷にきえみし」と「荒蝦夷あらえみし」の境界領域(「日本書紀」にいう「蝦夷の境」)に相応しい動きといえるのではないでしょうか。

では「竹水門」は多珂郡のどのあたりか? という問題になります。「和名抄」によれば、多珂郡内には「多珂郷」が含まれており、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」によれば、多珂郷は現在の茨城県高萩たかはぎ市の北部から北茨城市の南部にかけてがその郷域と推定されています。のちの多珂(多賀)郡衙も同郷内にあったとみられますので、なかなか有力です。

しかし、筆者にはもう一つの推奨地があります。それは、現在の福島県いわき市南部を流れるさめ川の河口部、JR常磐線の勿来なこそ駅から植田うえだ駅にかけての一帯です。先に述べましたように、同地はかつて常陸国多珂郡の郡域でしたが、養老2年、多珂郡から分割された石城国(のち陸奥国)菊多郡の郡域にあたります。

鮫川河口は、犬吠埼からの直線距離は約130キロメートル(海岸線をたどれば約160キロメートル)、かなりの距離はありますが、仙台湾へのそれと比べれば、半分以下となります。

ここで、日本海側における城柵設置の推定地をみますと、阿賀野川河口(渟足柵)、石川河口(磐舟柵)、最上川河口(出羽柵)、雄物川河口(秋田城)と、いずれも中級以上の河川の河口部にあたります。多珂郡の郡域(広かった頃を含めて)において、その条件にあてはまる地を求めれば、鮫川の河口部が最適地となります。

さらに、鮫川河口部から5キロメートルほど南下した現いわき市勿来町関田なこそまちせきた地区は、奥羽三関の一つである「勿来関」の擬定地であり(勿来関の存在自体を疑問視する意見もありますが……)、蝦夷の賊首や嶋津神・国津神たちが集結した「蝦夷えみしさかひ」にピッタリではないか、と筆者は考える次第です。

「蝦夷の境」の条件を満たす、いわき市南部の鮫川河口。

今回は「葦浦・玉浦」からの距離に着目し、さらに「蝦夷の境」という文言も考慮に加えて、現在の福島県いわき市南部の鮫川河口を「竹水門」の候補地に推奨してみました。

次回は「日本書紀」の「蝦夷すでけて、日高見国ひたかみのくによりかへりて、西南ひつじさるのかた常陸ひたちて、甲斐国かひのくにいたりて、酒折宮さかをりのみやします」にみえる、「日高見国」をキーワードとして「竹水門」の所在地について改めて考察したいと思います。

(この稿続く)