日曜日の朝、NHK(総合テレビ)に『課外授業ようこそ先輩』という番組がある。筆者はあまり熱心な視聴者ではなく、先日(2009年12月6日)もチャンネルは合わせていたのだが、いわゆる「ながら見」をしていた。ところが、放送が始まって間もなく、アナウンサーの発した言葉に強烈な違和感を覚えた。その回のゲスト(先輩)であった上野動物園園長小宮輝之氏の出身校(東京都)文京区立小日向台町小学校を紹介する際、「ぶんきょうくりつ『こ・ひ・な・た』だいまちしょうがっこう」と発音したのが耳に障ったのである。
小日向=コビナタは東京都文京区の南西部に位置する。北東側を
東京の中心部は、近世に発展した江戸(江戸城下)を骨格とする都市である。こうした東京の中心部にあって、小日向は中世の史料で確認できる数少ない地名の一つ。JK版「日本歴史地名大系」の「小日向」(読みは「こびなた」)の項目は次のように記している。
『(前略)応永二七年(一四二〇)五月九日の江戸名字書立(米良文書)には「こひなたとの」とあり、年未詳の豊島名字書立(同文書)には「在こひなた たんしやう殿」とある。(中略)天正一八年(一五九〇)徳川家康が江戸に入った頃、小日向辺り一帯は沼・池が多い低地で、
上記引用の最後に「その後町屋も起立されるようになり人家も増えていったとされる」とあるが、江戸時代、小日向の一帯には小日向町のほか、小日向
その後、明治末期になって小日向町および小日向水道町、小日向台町を除く町は「小日向」の冠名をはずし、それぞれ小石川区武島町、小石川区日東古川町、小石川区松ヶ枝町、小石川区第六天町などとなった。台町・水道町に小日向の冠名が残ったのは、同じ小石川区内の
第二次世界大戦後の昭和37年(1962)に新住居表示法が施行されると、文京区でも翌38年から42年にかけて住居表示の整備が行われた。小日向地区では昭和41年に、 それまでの小日向町=コビナタマチ、小日向水道町=コビナタスイドウチョウ、小日向台町=コビナタダイマチと、かつては小日向=コビナタの冠称を有していた第六天町、松ヶ枝町、三軒町など9町の計12町に周辺地区の一部をあわせて、文京区小日向(読みは「こひなた」)1-4丁目および水道1-2 丁目に再編された。一方、旧小日向地区の一部は隣接する文京区音羽(1丁目)、同春日(2丁目)、同関口(1-2丁目)の各一部となった。
ところで、小日向町=コビナタマチや小日向=コビナタを冠する町と、かつて小日向=コビナタを冠していた町が集まってできた新しい町の名が、どうして「こひなた」になったのだろうか。
(この稿次回に続く)