「日本歴史地名大系」の監修者(「愛媛県の地名」)であった大石慎三郎氏(1925~2004、日本近世史・学習院大学名誉教授)は、江戸時代を開発の中心が洪積台地から沖積平野へと向かった時代と捉えておられました。
開発とはもちろん農地の開発が主なのですが、城郭も中世の洪積台地(山城)から近世の沖積平野(平城)へと転換を遂げますし、当然のことながら居住地(人口密集地)も沖積平野が中心の時代になったと思います。
中世の都市としてすぐに名前が浮かぶのは、京都・奈良・鎌倉・博多・周防山口・駿河府中(
中世寺内町の町割を今に伝える橿原市今井地区
江戸時代には全国各地に城下町が建設されました。江戸・京都・大坂の三都は別格として、江戸後期に表高20万石以上を目安に大大名たちの城下町を眺めてみましょう。そうしますと、内陸部に形成された陸奥盛岡(南部氏)・陸奥若松(松平氏。現福島県会津若松市)・近江
城下町(人口密集地)の立地状況からも、江戸時代における洪積台地から沖積平野への推移が確認できたと思います。ところで、平成の大合併の動きもようやく収まりました。「全国市町村要覧」によると、平成26年(2014)10月1日時点での全国の自治体数は1719(東京23区は1つの自治体としてカウント)。このうち、海に面している自治体は幾つあるかご存知ですか?
江戸時代、日本最大の都市「江戸」の町人地は荒川・利根川水系の沖積低地に形成された
正解は638市町村。全体の約37パーセントにあたります(サロマ湖などの汽水湖のみに面している場合は内陸型に分類)。ただし、筆者が前掲「全国市町村要覧」収録の県別地図を頼りに手作業で集計した数値ですので、間違いもあるかと思いますが、その点は平にご容赦ください。さて、この638市町村は多いのか少ないのか?
ここで視点を変えて、人口(平成26年1月1日現在の住民基本台帳の数値による)10万人以上の都市の海型・内陸型の比率をみてみましょう。全国で人口10万人以上の市は269、うち海岸線を有する市は120。山口市のように本来は内陸型だったのに、平成の大合併で海岸部を取り込んでしまった都市も海型にカウントしています。全体の46パーセントを占めており、全自治体の比率37パーセントよりも海型がかなり高くなっています。
さらに、10万人以上を10万~15万未満、15万から20万未満、20万から30万未満、30万~50万未満、50万から100万未満、100万以上の6段階に分けてみると、下表のようになりました。
人口区分 | 総数 | 海型数 | 内陸型数 | 海型の割合 |
10~15万未満 | 104 | 36 | 68 | 34.6% |
15~20万未満 | 50 | 21 | 29 | 42.0% |
20~30万未満 | 43 | 21 | 22 | 44.8% |
30~50万未満 | 43 | 21 | 22 | 44.8% |
50~100万未満 | 17 | 12 | 5 | 70.6% |
100万以上 | 12 | 9 | 3 | 75.0% |
10~15万では全国平均の37パーセントより低い34.6パーセントですが、人口が増加するほど海型都市の比重は高くなり(20~30万と30~50万では変化はありませんが)、100万人以上では全体の4分の3が海型都市という高率になりました。
大都市になればなるほど海型の比率が高まる。これは江戸時代に転機を迎えた洪積台地から沖積平野への進出がさらに進み、谷間・盆地⇒下流平野部⇒河口部とどんどん川を下って、ついには海浜部の埋立に向かっている現今の証左なのかもしれません。近代以降の臨海工業地帯の隆盛も、現代の湾岸ブームも、こうした時代の大きな流れに即した、理にかなった動向といえるのでしょうか。
(この稿終わり)