音戸ノ瀬戸は広島県呉市の南部、
昭和36年(1961)には休山山塊の南麓西側、呉市
広島‐松山航路などの船が行き交う音戸ノ瀬戸
音戸ノ瀬戸は、自然が形作った狭小な瀬戸なのですが、地元では平清盛が開削したという言い伝えを語り継いできました。ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【音戸ノ瀬戸】の項目は、この伝説を記す「芸藩通志」の記載を次のように引用しています。
音戸大橋の東詰にあたる「警固屋」の地名は、清盛の瀬戸開削の際に炊事小屋(=かしきごや=食小屋=けごや)が置かれたことに由来するという説もあり、やはり人工的につくられた水路ではないか、と推測しています。
ところで、ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」は【警固屋】の項目を「けいごや」と「けごや」の二つ読みで立て、「けいごや」の読みでは、「警固する人たちの小屋。警固する兵士たちの詰所」、「けごや」の読みでは「敵勢の動きを見守る建物」という語釈を記しています。
また、関連が深い【警固所】(読みは「けごしょ」)の項目は「平安時代、防人司(さきもりのつかさ)が廃止された後に九州博多地方を警固するために設置された役所。貞観一一年(八六九)新羅(しらぎ)の賊が博多に侵入した事件をきっかけに俘囚一〇〇人を博多に移し、大宰権少弐の指揮下に危急に備えた。以来、一二世紀初めまで活動した。けいごしょ」と記し、さらに【警固船】(読みは「けいごぶね」)の項目では、「中世および近世の水軍で、輸送船または輸送船団を、海賊や敵水軍から守る軍船。関船や小早船などが多く用いられた」と記しています。
ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」で「警固」と入力し、見出し検索(部分一致)をかけますと、呉市の「警固屋村」以外に6件がヒットします。うち福岡県福岡市中央区の「
また、山口県防府市の「
こうしてみますと、呉市の「警固屋」の地名由来も、「炊事小屋=食小屋」ではなく、「警固する人たちの小屋。警固する兵士たちの詰所」、「敵勢の動きを見守る建物」に関連したものではないか、と思われます。あるいは、「警固船」に関連し、「中世および近世の水軍で、輸送船または輸送船団を、海賊や敵水軍から守る軍船」の基地であった可能性も考えられます。
清盛は音戸ノ瀬戸を開削したのではなく、たとえば、警固屋の地に拠点を置いていた海賊を追い払い(あるいは改心させて)、船団を警固する水軍に再編成するなど、航路の整備を図ったのかもしれません。何しろ、音戸ノ瀬戸の東側には、かつて瀬戸内海航路を掌握していた村上水軍が本拠とした
先にあげた「芸藩通志」の引用に続き、【音戸ノ瀬戸】の項目は次のように記します。
平清盛の開削に関する確証はないが、平氏が日宋貿易のためのみならず、厳島神社への崇敬から、厳島への内海航路を整備したことは間違いないし、この瀬戸が平家から厳島神社へ寄進された
さらに続けて、
清盛の音戸開削伝説は「房顕覚書」に「清盛福原ヨリ月詣テ在、音渡瀬戸其砌被掘」とみえ、音戸の瀬戸西岸の清盛塚が室町時代と思われる宝篋印塔であることや、「輝元公御上洛日記」に「清盛ノ石塔」とみえることから、それ以前、せいぜい室町時代頃成立したものかと思われる。夕日を扇で招き返して一日で完成させたとか、人柱のかわりに小石に一切経を書いたという。ともあれこの瀬戸を通って厳島に向かういわゆる安芸地乗航路が、中世・近世を通じて重要な交通路として機能したことは確かである。
「房顕覚書」とは、戦国時代に厳島神社の神職(棚守)であった野坂房顕の覚書ですが、「警固屋」の地名由来以外にも、地元には数多い清盛関連伝説が残されていたことがわかります。
ただし、「夕日を扇で招き返して(瀬戸開削を)一日で完成させた」という話は、長者伝説として各地に類似の物語が残されています。その一つ、鳥取県
また、「(開削普請の)人柱のかわりに小石に一切経を書いた」という伝承は、実際に清盛が改修にあたった摂津国
現在、休山の稜線上、音戸ノ瀬戸を一望できる「音戸の瀬戸公園」の一画、