日本歴史地名大系ジャーナル 知識の泉へ
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第103回 音戸ノ瀬戸と警固屋

2015年08月21日

音戸ノ瀬戸は広島県呉市の南部、休山やすみやま半島の南端部と向かい側の倉橋くらはし島との間の海峡をいいます。長さ約800メートル、幅は狭いところで100メートルに足りず、潮流の最大流速は約4ノット。この狭い海峡を1日約650隻の船が行き交っています。

昭和36年(1961)には休山山塊の南麓西側、呉市警固屋けごや地区と、倉橋島の北端近く、同市音戸町おんどちょう音戸地区(当時は安芸郡音戸町音戸)との間を結んで音戸大橋が架橋されました。

広島‐松山航路などの船が行き交う音戸ノ瀬戸

音戸ノ瀬戸は、自然が形作った狭小な瀬戸なのですが、地元では平清盛が開削したという言い伝えを語り継いできました。ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」の【音戸ノ瀬戸】の項目は、この伝説を記す「芸藩通志」の記載を次のように引用しています。

於牟登迫門おんどのせと 瀬戸島と警固屋村との間にあり。相伝ふ、平相国(清盛) のきりぬかれしと。相国厳島神を崇信してしばしば往来す。故に此迫門を鑿て舟路の便とすといふ。さもあるべきか。(中略)按に、相国開鑿の事、国史に見えず。されど此迫門の東にある警固屋村、もとはなべけごや、鳥の平村と称す。是開鑿の時、食廠を置し地にて、食小屋けこやの義なりといふ説もあり、且此地の形勢を見るに、自然の潮路とも見えず、いかにも山を鑿しにやとおもはる。

音戸大橋の東詰にあたる「警固屋」の地名は、清盛の瀬戸開削の際に炊事小屋(=かしきごや=食小屋=けごや)が置かれたことに由来するという説もあり、やはり人工的につくられた水路ではないか、と推測しています。

ところで、ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」は【警固屋】の項目を「けいごや」と「けごや」の二つ読みで立て、「けいごや」の読みでは、「警固する人たちの小屋。警固する兵士たちの詰所」、「けごや」の読みでは「敵勢の動きを見守る建物」という語釈を記しています。

また、関連が深い【警固所】(読みは「けごしょ」)の項目は「平安時代、防人司(さきもりのつかさ)が廃止された後に九州博多地方を警固するために設置された役所。貞観一一年(八六九)新羅(しらぎ)の賊が博多に侵入した事件をきっかけに俘囚一〇〇人を博多に移し、大宰権少弐の指揮下に危急に備えた。以来、一二世紀初めまで活動した。けいごしょ」と記し、さらに【警固船】(読みは「けいごぶね」)の項目では、「中世および近世の水軍で、輸送船または輸送船団を、海賊や敵水軍から守る軍船。関船や小早船などが多く用いられた」と記しています。

ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」で「警固」と入力し、見出し検索(部分一致)をかけますと、呉市の「警固屋村」以外に6件がヒットします。うち福岡県福岡市中央区の「警固神社けごじんじゃ」と「下警固村しもけごむら」、同市南区の「上警固村かみけごむら」、同市早良区の「警固けご」は、いずれも、古代に九州博多地方に設置された「警固所」と何らかの関連がある地名ではないか、と筆者は思います。

また、山口県防府市の「警固町けいごまち」の項目は、「古くは都浜みやこはまと称された地であったが、慶長年中(一五九六―一六一五)に毛利氏の水軍を下松くだまつ(現下松市)よりこの地に移し、船手組の宅地とした。のち海上警固の任にあたる諸士の居住地であるため、警固町の名でよばれるようになった」と記し、残る大分県津久見市の「警固屋村けごやむら」の項目は、「村名は大友宗麟が隠居後、津久見岩屋いわやの茶亭で遊んだ際その警固の士が当地にいたことに由来するという(臼杵小鑑)」と記します。

こうしてみますと、呉市の「警固屋」の地名由来も、「炊事小屋=食小屋」ではなく、「警固する人たちの小屋。警固する兵士たちの詰所」、「敵勢の動きを見守る建物」に関連したものではないか、と思われます。あるいは、「警固船」に関連し、「中世および近世の水軍で、輸送船または輸送船団を、海賊や敵水軍から守る軍船」の基地であった可能性も考えられます。

清盛は音戸ノ瀬戸を開削したのではなく、たとえば、警固屋の地に拠点を置いていた海賊を追い払い(あるいは改心させて)、船団を警固する水軍に再編成するなど、航路の整備を図ったのかもしれません。何しろ、音戸ノ瀬戸の東側には、かつて瀬戸内海航路を掌握していた村上水軍が本拠とした芸予げいよ諸島の島々が連なり、「警固屋」の対岸倉橋島は、大内氏配下の多賀谷たがや水軍が拠点とした島だったのですから。

先にあげた「芸藩通志」の引用に続き、【音戸ノ瀬戸】の項目は次のように記します。

平清盛の開削に関する確証はないが、平氏が日宋貿易のためのみならず、厳島神社への崇敬から、厳島への内海航路を整備したことは間違いないし、この瀬戸が平家から厳島神社へ寄進された安摩あま庄に属していたことも考えあわせれば、平氏が航路整備上、なんらかの手を加えた可能性は否定できない。康応元年(一三八九)三月、足利義満の厳島参詣に随従してこの瀬戸を通った今川了俊は、「鹿苑院殿厳島詣記」に「おむどのせとゝいふは滝のごとくに潮はやく、せばき処なり。舟どもをし落されじと、手もたゆくこぐめり」と述べ、「船玉のぬさも取あへずおち滝つ早きしほせを過にける哉」と詠んでいる。しかし清盛の音戸開削のことは一言もふれていない。

さらに続けて、

清盛の音戸開削伝説は「房顕覚書」に「清盛福原ヨリ月詣テ在、音渡瀬戸其砌被掘」とみえ、音戸の瀬戸西岸の清盛塚が室町時代と思われる宝篋印塔であることや、「輝元公御上洛日記」に「清盛ノ石塔」とみえることから、それ以前、せいぜい室町時代頃成立したものかと思われる。夕日を扇で招き返して一日で完成させたとか、人柱のかわりに小石に一切経を書いたという。ともあれこの瀬戸を通って厳島に向かういわゆる安芸地乗航路が、中世・近世を通じて重要な交通路として機能したことは確かである。

「房顕覚書」とは、戦国時代に厳島神社の神職(棚守)であった野坂房顕の覚書ですが、「警固屋」の地名由来以外にも、地元には数多い清盛関連伝説が残されていたことがわかります。

ただし、「夕日を扇で招き返して(瀬戸開削を)一日で完成させた」という話は、長者伝説として各地に類似の物語が残されています。その一つ、鳥取県湖山池こやまいけの「湖山長者」の話はよく知られています。一千町歩の田を誇った長者は、一日で田植えを済ませようと、金の扇で夕日を招き返しましたが、罰があたり、田は湖(湖山池)にかわってしまったといいます。

また、「(開削普請の)人柱のかわりに小石に一切経を書いた」という伝承は、実際に清盛が改修にあたった摂津国大輪田泊おおわだのとまり(のちの兵庫津。現在の兵庫県神戸市兵庫区)のこととして伝えられています。清盛が、大輪田泊の前面に波浪よけのために築いた島は、一切経の石でできていたことから「経ヶ島」とよばれ、島名は史料でも確認できます。

現在、休山の稜線上、音戸ノ瀬戸を一望できる「音戸の瀬戸公園」の一画、高烏台たかがらすだいには、昭和42年(1967)に音戸ノ瀬戸開削800周年と銘打って建立された清盛の日招像があります。立烏帽子直垂姿の清盛が、沈みかけた太陽を返すように日没の方向に扇を差し出している像です。音戸ノ瀬戸は自然に形成された海峡なのですが、地元では清盛による開削、および、その普請に関連するさまざまな伝説が今も根付いているようです。休山半島や倉橋島の人々は、音戸ノ瀬戸の航路を整備し、また、地元安芸国一宮である厳島神社に対する尊崇も厚かった清盛に対し、永く敬慕の念を抱いていたのでしょう。そのことが、さまざまな清盛伝説を生み出した要因ではないか、と筆者は推測する次第です。