南には八重谷越の鞍部を隔てて湖南市の
鏡山、十二坊、三上山など一連の山塊は、北東を日野川、南西を野洲川の流れに画されます。北西側は、山塊の縁沿いを南西-北東方に、古代の東山道(中世の東海道、近世の中山道)に相当する国道8号が通り、さらにその北西側を東海道新幹線、東海道線(琵琶湖線)が走っています。
ジャパンナレッジの「日本歴史地名大系」では、
山名は山麓の古墳から鏡が出土したことによるとも、壬申の乱で大友皇子と戦った大海人皇子の武将鏡大君が当地で討死し、葬られたことから名付けられたとも伝える。山容の美しさもあって、古来歌枕として知られ、近江名山の一つに数えられた。
と記されます。
日野川と野洲川に画される鏡山・十二坊・三上山の山塊
「日本歴史地名大系」では、この滋賀県の鏡山のほかに、
(1)京都市山科区(旧山城国)の鏡山
天智天皇 の山科陵、あるいはその背後の山をいいます。
(2)福岡県
神功皇后が国見をし、鏡をこの山に安置したところからその名が起こったといい、持統3年(689)閏8月27日に筑紫大宰帥に任じられ、同8年4月頃に没した河内王(川内王)はこの山に葬られたともいいます。
(3)佐賀県唐津市(旧肥前国)の鏡山(284メートル)
松浦佐用姫の伝説により
(4)宮崎県
別名の円野山の名称は、山頂部の山容の形態とそこが原野となっていることからと考えられ、中腹にはかつて鏡山鉱山があって、含銅硫化鉄鉱を採掘していましたが、昭和30年(1955)に休山しました。
と、四つの「鏡山」を項目としてとりあげます。ジャパンナレッジ「日本国語大辞典」では、さらに広島県東広島市西条町(旧安芸国)の鏡山(335メートル)をとりあげて、
室町時代、大内氏が西条城を築き、安芸国(広島県西部)を支配したが、大永三年(一五二三)尼子経久に攻められて落城した。
と記しています。
画面中央が肥前の鏡山。別称
各地の「鏡山」には鏡の埋納伝承が多いような気がしますが、鏡味完二・鏡味明克の「地名の語源」(1977年、角川小辞典13)では、「カガミ」は(1)芝草地〔香々美、香美、加賀美、鏡、各務(カカミ)〕、(2)鏡形〔鏡池、鏡野、鏡山(平頂の山)〕、(3)鏡〔鏡石、鏡石山、鏡山、鏡宮〕、(4)鏡作部〔鏡作、香美、各務〕と説明しています。
「鏡山」の名称は、(伝承は多いのですが)鏡を埋めた山というよりは、本来、頂上が平ら(平頂)な山、あるいは頂上部に芝草が生えていたような山をさしていると考えられるのではないでしょうか。これまでみてきた「日本歴史地名大系」や「日本国語大辞典」がとりあげる「鏡山」も、標高はさほど高くはなく、山容も峻険ではない山がほとんどです。
ところで、滋賀県(近江)の「鏡山」には、もう一つの大きな特徴があります。それは、鏡山、十二坊、三上山の山塊およびその周辺に多くの重要建造物(国宝および重要文化財)が存在することです。
はじめに国宝建造物をあげますと、竜王町の鏡山東麓平野部に
少し離れているのですが、十二坊と野洲川を挟んで南西方に位置する湖南市の
鏡山北西麓の大笹原神社。本殿は国宝に指定される
重要文化財建造物のある寺社をあげると、野洲市では
次回は、近江の鏡山周辺に何故これだけ多くの文化財建造物が残されたのか? その理由の一片を考察したいと思います。
(この稿続く)